反骨精神で伝統絵画に宣戦
中国伝統の芸術の壁を壊し、新しい伝統を打ち立てようと考える劉国松は「中国絵画を模倣の停滞から蘇らせられると信じています。中国絵画を現代に持ち込み、五千年の歴史文化と西洋の現代文明との接点に置けば、大きく揺れ動きますが、衰退することはないでしょう」と語る。
こう考えるには、それまでの道程があった。
書も絵も良くした劉国松は、台湾省立師範学院芸術学科(現在の国立師範大学芸術学科)に入学したが、怖いもの知らずの性格は権威的で閉鎖的な制度にぶつかり、教室で退屈な授業を聞くよりもと、バスケットボールに熱中していた。
師範学院での日々を回想し、「反抗的で、書道を選択したのに、水墨画の先生がまず書を学び上達すれば絵も上達するなどと言うので、書道をやめてしまいました」と言う。
書道をやめるとは、書画同源という伝統に宣戦布告したに等しい。それでも劉国松は、水彩画主席、水墨画二位の成績で卒業した。
1956年に同級生だった郭東栄、郭豫倫、李芳枝と共に、パリの有名な美術展覧会サロン・ド・メ(五月展)に倣い、台湾の現代美術運動を目指す「五月画会」を結成した。だが同じ時期、劉国松は趙無極の東洋の抒情抽象の影響を受けた。西洋化から中国との融合へ、西洋の油絵から東洋の紙と墨の水墨画へと回帰して、抽象水墨画の模索の旅がここから始まった。
「以前の絵画は説明的ですが、説明は文学に任せればいい。絵画は視覚の抽象化で、抽象画こそ絵画そのもの、純粋絵画なのです」と、劉国松はその芸術観を語る。「現代絵画とは抽象画のこと、抽象画しかありません」と語るその論は、多くの写実派の画家の恨みを買ってしまった。
夫人の黎模華に言わせれば、劉国松は大胆不遜ということになる。当時、台湾大学植物病理学科を卒業し、農業委員会林業試験所に勤務していた黎模華とバス停で出会い、劉国松はすぐ恋に落ちた。父も母も失い、台湾で一人きりで金もなく、いつも同じ軍の訓練服を着ている貧しい芸術家なのに、求婚者も多かった黎模華はなぜ彼を選んだのだろう。「大胆でエネルギッシュで、後先を顧みず、恐れずまっすぐに進む人」と言うが、言ってみれば悪い男の典型だろう。