貧しい家に生れた楊麗花だが、当時すでに歌仔戯(台湾オペラ)界屈指の人気男役だった。幼い頃から母の舞台を見て育ち、その影響もあって13歳で一座に加わった。
「テレビ歌仔戯」が始まると、楊麗花に新しい活躍の場を提供した。歌声はいいし、品のいい立ち姿もあり、演技は繊細で美しく、さらに華やかな衣装に大道具と、普段は歌仔戯を見ない観客をテレビに惹きつけて、視聴率の記録をたびたび更新したのである。
1981年に、楊麗花が初めて国父記念館の大舞台に立った。その公演から彼女は、後継者難という歌仔戯の難題を考えるようになり、台湾最初の歌仔戯養成コース開設を台湾テレビ(TTV)に説得して、自身が実務を担当することにした。
TTVの黄以功ディレクターは、楊麗花の奮闘の歴史こそ、30年にわたる台湾の生活の変化を映していると語った。戦後の苦難と発展への努力、その後の安定と豊かな生活への過程のどの一つも単なる幸運ではなかったのである。
もう一人の大スター鳳飛飛は、最も人気の高かった歌手である。自然で優美な歌声が人気で、ドラマにも出ていたが、ファンにとっては「近所の女の子」といった親しみやすさがあった。
鳳飛飛は帽子を被った中性的な装いで、海外華僑にも愛された。チャリティ活動にも熱心で、台湾を代表して華人の慰問に出向き、その口癖である「感謝您(ありがとう)」の声は、今でも多くのファンの心に残っている。
鳳飛飛は帽子の女王と呼ばれたが、また模範労働者にも選出されたことがあり、労働者の天使であり、多くの人にとっては慈善大使としても親しまれていたのである。
楊麗花は歌仔戯の舞台では男役を演じることが多く、これは台湾歌仔戯の特色でもある。「帽子の女王」と呼ばれた歌手の鳳飛飛は中性的な出で立ちで知られ、常にファンに追いかけられていた。
楊麗花は歌仔戯芸術の伝承に力を注ぎ、鳳飛飛は海外華僑のための慰問コンサートを数多く開催した。二人のビッグスターは台湾のテレビの発展と緊密な関係にあった。
楊麗花は歌仔戯芸術の伝承に力を注ぎ、鳳飛飛は海外華僑のための慰問コンサートを数多く開催した。二人のビッグスターは台湾のテレビの発展と緊密な関係にあった。