「頂上を目指すのが登山の唯一の目的ではない」とも言われるが、儲榢逸は次々と高みを目指す。その後も、チャウ・シンチー監督の『美人魚(人魚姫)』、公共テレビのドラマ『麻酔風暴2』で特殊メイクを担当、2018年には第53回金鐘奨美術デザイン賞を受賞した。
『麻酔風暴2』は医療ドラマで、毎回必ず手術シーンがあるほか、爆発シーンも5回あった。
ハリウッドの特殊メイクアーティストとも交流のある儲榢逸はこう分析する。欧米の特殊メイクがドラマ全体の効果に重きを置くのに対し、台湾の場合は細部や撮影の質感が重視される。本物らしさを追求するため、彼は自分の体を元に、作り物の人体を制作した。それは切ったり割ったりでき、しかも繰り返し使用できる。
「手術のやり方も患者の傷の様子も、すべて実際の病院での様子を再現します」儲榢逸は出演者とともに4カ月近い医療訓練を受け、手術道具の使い方や、手術の流れも実際に学んだ。その複雑さに驚いたと彼は言う。
『麻酔風暴2』は、戦地での撮影という忘れ難い経験もした。台湾ドラマ初のヨルダン・ロケとなり、立ちはだかる問題も多く、資材や時間の有効利用が求められた。「最初の爆発シーンの蕭政勲(黄健瑋)のメイクは、丁寧にやれば2時間ぐらい必要なのを、我々は6分で仕上げました。これまでで最短記録です」
『美人魚』も『麻酔風暴2』も、さまざまな国の人とコミュニケーションを取る必要があり、緊張を伴った。幸い、儲榢逸の温厚な人柄や協調性のおかげで、さしたる摩擦もなく終わった。これもまた別の意味でのプロの技だと言えよう。
医学教育への貢献
儲榢逸の特殊メイクは、医学教育にも生かされている。今回我々は、彼とともに国立台北護理健康大学に行って、「標準模擬患者」の授業を見学した。
儲榢逸を招いたのは陳皓羽先生で、台北医学大学の標準模擬患者のトレーナーだ。彼女の話によれば、2015年に起きた八仙地上楽園爆発事故では大勢の患者を前に茫然としてしまった医療スタッフが多く、この経験から標準模擬患者の訓練が重視されるようになった。標準模擬患者は実際の患者の傷や反応を忠実に再現する。まず模擬患者への対応を経験し、実際の現場で的確な判断が下せるようにするのがねらいだ。
そこで、身体の構造に詳しい儲榢逸の出番となった。「傷口周辺は細菌感染で腫れています」と説明しながら学生の肌に傷をメイクする。重い火傷や指の吹き飛ばされた跡もその場で作る。
病院との協力は特殊メイクの仕事を広げることになるし、台湾の医学教育に少しでも貢献できれば、と儲榢逸は願う。
ひたむきに前へ
熱心に学ぼうとする学生には、儲榢逸は惜しみなく教えるし、現場にも参加させる。
その一方で彼は、監督になるという当初の夢や、歌手や俳優への転向も実現させつつある。
特殊メイクは心理的に暗い状況に置かれることが多い。「でも演じることは、自分の発見にもつながり、何かを発散できた感じがします」
クリスチャンの彼は、特殊メイクの仕事を「荒れ野」に例える。何もない荒れ野でも、祝福は与えられると。金鐘奨の受賞のスピーチでも、彼は「後ろのものを忘れ、ひたむきに前へと進む」と聖書を引用した。儲榢逸とアーティストたちの努力は、台湾の特殊メイクを世界へと羽ばたかせるだろう。