他者の痛みを傍観するのではなく
写真作品へと目を戻すと、黄亦晨の作品は、報道メディアのように被害者の状況や事件をセンセーショナルに直接的にとらえるのとは異なり、一枚のベールを介在させたかのように曖昧にぼかして表現している。例えば、女性の姿をネガフィルムの状態で映し出したり、また景観写真には暴力の痕跡を残すなどして、故意に明晰ではない画像にすることで、ある種の不安定な状態を表現しているのである。こうした質感は写真作品に「視覚的触感」をあたえ、ベールの介在を通して、痛みを表現した写真がもたらしがちな「他者の痛みを傍観する」という問題の発生を回避していると言えるのである。
報道メディアにおいて、センセーショナルに繰り返し苦痛を再現する写真は、かえって観る者にそれを「他人事」と感じさせやすく、果てには「自分の身に起こらなくてよかった」、自分は幸運でよかったとさえ思わせるものだが、黄亦晨は作品にベールを介在させることで、事件の結果を伝えるだけでなく、加害/被害の状態に立ち返らせる。そして、このような扱いは、私たちに事件と写真の背後にある構造的問題を考えさせることとなるのである。
私から見ると、黄亦晨は、女性が置かれた危険な社会的状況を表現し、あるいは親密な関係における男性の暴力を一方的に譴責するだけではない。むしろ創作を通して、自ら事件調査に参画した時の強烈な体験における「感情」を際立たせているように思える。例えば、敢えてネガフィルムを傷めつけることで、暴行のプロセスの痕跡を表現し、観る者に不安を感じさせるといった手法だ。また興味深いのは、最後の音声ファイルのエリアである。ここでは視覚ではない表現を用いており、これによって私たちは逆に深く暗い淵から引き出され、救いと癒しの可能性を感じることができるのである。