この頃、張舒眉は自信に満ち、海外留学を考えていた。ところが、これまで一緒に頑張って来た工場の友人たちから毎日のように電話がかかってきたのである。「張さん、助けてくださいよ。あなたが助けてくれなければ、私たちの商品をどうやって海外に売ればいいんですか」と。
こうして輸出を請け負うこととなった商品は多岐にわたり、いずれも台湾の零細工場が生産するものばかりだった。「私たちの金型職人は、最先端の道具も持たないので、製作には時間がかかりますが、彼らが感覚と経験で創り出す金型は決して先進国に引けを取りません」と話す張舒眉は、薄暗い工場で働く職人を尊敬しており、彼らの存在が彼女を台湾にとどめることとなった。張舒眉はアパートを借りてファックスを備え、居間で外国の顧客にレターを書き、工場の製品をカタログにし、世界中に売り込んでいった。JPCはこうしてスタートしたのである。当初の社員は2名。1992年、張舒眉が30歳の時だった。
JPCは最初は何でも販売し、一度はストレチアの代理もした。折しも、コンピュータが急速に普及し始めた時代で、台湾の電子製品受託生産業が興隆し始めた時期でもあり、JPCもその流れに乗って電子関連製品の市場を拡大していった。その成長があまりにも速かったため、この分野が会社の核心となり、居間から始まった会社は2005年に上場することとなる。
利益より重要な「ささやかなこと」
女性企業家が一人でエレクトロニクスの業界で戦ってきた感想を問われると、彼女は壁にかけた漫画を指差し、「私がコンピュータに対して抱いてきた想像です」と言う。
想像力豊かな女性は、コンピュータを冷たい機械とは考えない。JPC創設当初、彼女は漫画家に依頼して彼女が想像するコンピュータの漫画を描いてもらった。コンピュータはワイアレスになり、人間のあらゆる物事に関わり、翼を持って空を飛ぶ。こうしたイメージを、彼女はヤフーやグーグルより先に抱いていたのだ。
彼女はかつてノキアのフィンランド人に「あなたたちの作る携帯電話は醜い」と言ったことがある。当時彼女は、今のスマホのようにカラフルで女性のアクセサリーになるような携帯電話をイメージしていたのだ。「しかし、ノキアは当時、携帯電話は男性が使うものだから、美しい必要はないと考えていたのです」
コンピュータにSF小説のような想像をふくらませていた彼女は、この仕事を楽しみつつ、会社の競争力を高めていき、当初は想像もしなかった成功を手にした。しかし、売上が100億元の大台を超え、業界で「女・郭台銘」と呼ばれるようになった時、突然不安にかられた。このまま永久に会社の成長を追い求め、何よりも利益を重視する董事長になってしまうのか、と。
「自分には他に何ができるのだろう?」と彼女は自問した。当時、彼女のオフィスにはモダニズムの絵画がたくさん飾ってあり、それらの間に、台湾の伝統人形劇の苦海女神龍の人形が置いてあった。欲しいブランド品もほとんど手に入れたが、周囲を見回すと、台湾の山林は崩落し、河川は汚染され、文化芸術は停滞しているのに、工業団地ばかりが次々と建設されている。
JPCでは工場を海外に移転しつつ、消費者向け電子製品から少しずつ撤退しているが、今も文学少女である張舒眉は他に何ができるか考えた。
そこで2009年、彼女は李烈がプロデュースする映画『艋舺(モンガに散る)』に1500万元を出資した。彼女にとってこれは見返りを求めない「ささやかなこと」だったが、予想に反して映画は大ヒットした。このことが、幼い頃に卓球を教えてくれた梁先生や、彼女の手を引いて山を下り、二水で夏休みを過ごさせてくれた蕭先生のことを思い出させてくれた。
彼女が人生において出会ってきた人々の存在は「ささやかなこと」のように見えるが、いずれも人生を変えてくれた大切な力なのである。彼女は、これらの人々に恩返しをしたいと思い、また本来の自分を取り戻したいと思った。そこで彼女は「非常木蘭」と「L'amofirefly」を設立した。「何かささやかなことをしたいと思ったのです。台湾の自然環境を守ること、そして女性たちに勇気を持ってもらい、一人一人の人生のささやかなことを変えるために」と言う。
張舒眉は郭台銘とは異なる道を選んだ。それは女性の特質と言えるかも知れない。プラスチック成形の会社を経営する女性にどのように役に立つアドバイスをするかを考え、有機農法に投資する。張舒眉にとって「ささやかなことを真剣にやる」ことから得られる幸福感は、百億元の売上では得られないものなのである。