台湾海峡のミサイル危機
1979年、曹明生は金門の排長に任命され、戦闘部隊「無敵隊」の隊長も兼ねた。90年、上級士官を育成する三軍大学陸軍学院の研修生に選ばれ、翌年は金門の旅長に就任、95年には金門防衛司令部(今の金門防衛指揮部)の作戦処科長に命じられた。
96年、台湾海峡ミサイル危機が発生、共産党が台湾海峡でミサイル試射を行なった。ミサイルは高雄と基隆の沖に着弾し、一度は共産党軍が台湾の離島の一つに出兵するとの消息もあった。一触即発の状況に台湾人は不安に陥り、多くの人が海外に移住あるいは避難した。行政院主計処の統計によると、同年の海外移住者は11万9114人で、94年と95年の合計11万1494人より多い。
当時、金門防衛司令部にいた曹明生は、金門、馬祖、大胆、二胆などの離島の作戦計画を任されており、実践訓練も指揮し、台湾海峡の最前線の守りを固めていた。
「演習中、前線の軍人は何日も眠れませんでした」と言う。緊迫した状況に、多くの上級士官も体力が続かず、点滴を打ってしのいでいた。そんな中で彼だけは原住民としての体力に支えられ、明晰な頭脳と鉄の意志を維持していた。だからこそ、冷静に兵を指揮し、前線の兵士の気持ちを落ち着かせることができたのである。
曹明生は、牡丹社や霧社などの原住民族による抗日事件が証明するように、原住民には「命をかけて郷里を守る」血が流れていると感じている。多くの漢民族が海外へ逃れたのに比べ、原住民には「避難」という考えはなかった。「原住民にとって、台湾は最初から唯一の土地なのです。ここに残って戦う以外に道があるでしょうか」と曹明生は誇らしげに語る。
キャリアを積んで将軍に
98年まで、曹明生は台湾本島と金門島の間の赴任を繰り返し、排長、連長、営長、旅長と完全なキャリアを積んできた。そして2003年の元旦、ついに陸軍少将に昇格する。その翌日、彼は故郷に錦を飾る心持で軍服を着て部落に帰った。部族の人々は、自分たちの頭目将軍のために豚を締めて祝杯を挙げた。曹明生もパイワンの伝統衣装に着替え、人々と一緒に肉を頬張り、どんぶりで酒を飲んだ。彼の栄誉は、部落の栄誉でもあるのだ。
軍学校を卒業した少尉が、少将として肩章に星をつけるまで、昇格に「原住民」というエスニックの影響はなかったと感じている。ただ、プライベートでは、軍の仲間同士で互いの違いを暗示するような言葉でやりとりすることもあった。「各地から集まった若者たちは互いに冗談を言い合ってストレスを解消します。私のことを『番仔』とか『山地人』などと呼ぶ人もいますし、私も仲間のことを『大山東』とか『江西老表』などと呼んだことがあります。それは、まったく悪意のないやりとりです」と言う。
曹明生によると、軍に適応できずに辞めたり辞めさせられたりする人は、原住民族に限らず、どのエスニックにもいる。「原住民は身体能力が高いので、むしろ厳しい訓練に耐えられます」と言う。軍学校に入ったばかりの頃、毎日5000メートル走らされたが、それは彼には至極簡単なことで、いつもトップでゴールしていた。そして後ろを見ると、原住民ではない仲間たちが、倒れたり、吐いたりしていて、同情した。
親心で部下に接する
曹明生が軍学校に入ったばかりの頃、親は、彼が訓練で怪我をしていないかと心配し、しばしば面会に来てくれた。その気持ちが分かるからこそ、その後、曹明生も親の気持ちで若い兵士たちに接してきた。91年の頃、彼が苗栗県の後龍海防営の営長を務めていた時のある未明、無線連絡があり、義務兵が鉄道周辺巡回中に列車に接触して倒れたと知らせてきた。曹明生が急いで現場に駆けつけると、兵士は腸が飛び出るほど腹部に大きな傷を負い、意識不明だった。
「私は彼を抱きかかえてジープに乗り、病院へ着くまでの30分間、ずっと彼の腹部を押さえていました。両手は血まみれでした」と、痛々しそうな表情で語る。
それから半年後、曹明生は自らの手で、彼が救ったその兵士に除隊令を手渡した。「大難を乗り越えたのだから、必ず福が来る」と彼が回復を祝福すると、若者は目を潤ませて幾度も感謝の言葉を述べた。
昨年退役した曹明生は、退徐役官兵輔導委員会の手配で、欣欣バイオ食品公司の総経理に就任した。新しい仕事のために、彼は独学で食品化学と経営の知識を学んだ。デスクひとつとパソコン1台、それに椅子がいくつかあるだけのオフィスだが、いたるところに各種の専門書が置かれている。
自宅からは遠い職場なので、屏東に暮らす家族やパイワンの仲間に会えるのは週末だけだ。長女の偉玲は中国医薬大学在学中、二女の偉玲は中学生だ。娘たちに入隊を勧める気持ちはあるかと問うと「彼女たちの選択を尊重しますよ」と頭目将軍は答えるのだった。