50歳の手習い
台南市のシラヤ語教師は、主にシラヤ文化協会で養成され、現在約10名の教師が台南市の小中17校で教鞭を執る。王朝賜はシラヤ文化協会との連携に努める。教育は文化復興のすそ野を広げると考えるからだ。それに協会は言語の文書化や普及率向上など、シラヤ語復興を更に系統的な整ったものにしようと努めている。やがてその効果はさらに拡大し、音楽や演劇、文学といった創作活動も盛んになるだろう。
「2009年5月14日は私のシラヤ誕生日です」と、シラヤ語教師の李玉霞は嬉しそうに言う。彼女は日本統治時代の家族の戸籍を調べ、そこに「熟」の記載を見つけた(当時日本は、台湾の先住民を高山に住む「生」と平地に住む「熟」とで区別した)。つまり、自分はシラヤだったことが確かめられたのだ。長女だった彼女は幼い頃から男尊女卑の考えに困惑を感じていた。これも、シラヤが母系社会だったことを考えればつじつまが合う、と彼女は言う。
50歳を過ぎての手習い(シラヤ語学習)だと李玉霞は恥ずかしそうに笑う。若い時の語学学習は成績のためだったが、シラヤ語学習はアイデンティティのためだった。彼女は自分のシラヤ名を「ハール」とつけた。「役立つ」という意味だ。彼女は萬益嘉編纂の『シラヤ語彙初探』を読み、そこに幼い頃よく耳にした言葉を見つけた。皆はそれが台湾語だと思っていただけなのだと知り、感慨深いものがあった。
1965年生まれの穆伊莉もシラヤ語教師だ。彼女は社会に出て初めて自分がシラヤだと気づいた。思い出すのは、子供の時、学校で本籍地調査があるたびに、家族が言葉を濁して答えをはぐらかすような態度をとったことだ。「かつて差別されたつらさを、若い世代に経験させたくなかったのでしょう」と彼女は説明する。
家系図を調べ、穆伊莉は父母双方にシラヤの血が流れていることを知った。シラヤが昔の戸籍でいう「熟」なら、自分は「半熟」などではなく、「全熟」だと、彼女はおどける。
2006年に文化協会が言語復興を開始したのとほぼ同時に、彼女はシラヤ語を学び始めた。学んだことは多くないので、教えられることも少ないが、最初の授業ではまずシラヤ文化の概略を説明していると言う。今や「自分は先住民である」と堂々と言える社会になったものの、先住民文化に対する子供たちの理解はまだ充分ではない。「出草(敵の首を狩る習慣)って何?」と聞いてきた子供がいたが、そういう場合は「ただその行為だけを見るべきではなく、風習の背後には長い歴史や文化があるのだ」と教えている。
シラヤ語教師になった動機を問うと、「誰かが教えないと誰も話せなくなって、言葉は死に絶えてしまいますから」と、穆伊莉は使命感をにじませる。