特色1:啓蒙から尊重へ
90年代以降、台湾の政治は大きく変わり、現在の若い世代による社会運動は手探りの中で、上の世代とはまったく異なるスタイルを生みだしてきた。
最も異なるのは、以前のように、「知識分子」として海外の思潮を持ちこんで「啓蒙する」という態度ではなくなったことである。苦しむ人々の境遇を自らのものととらえ、そうした人々の主体性をより尊重するようになったのである。
18年前、野百合学生運動の5人の「広場総指揮」の一人として活躍し、今は世新大学社会発展研究所准教授の陳信行は、こうした変化が生じた原因として、この20年、台湾社会で情報が十分に流通し、国民の知識が高まり、高等教育が普及したことが挙げられるという。
彼が学生運動をしていた時代には、台湾の大学進学率はわずか30%で、大学生は将来の国を担う大黒柱と見なされ、留学帰りの学生はトップエリートとして扱われた。「私たちが学生の頃、『郷土サービス隊』を結成して地方へ行くと、現地のお年寄りが私たちに農村の問題を話してくれ、必ず『台北に戻ったら政府に話してくださいね』と言われたものです。この言葉には当時の『知識青年が国を救う』といった期待感が込められていたのです」と言う。
こうした環境から、当時の大学生はエリート意識を持っており、社会運動においては、自分が民衆を代弁するといった気負いがあった。そのため、弱者の主体性や本当のニーズを身落としてしまい、現実を無視した計画を立てることもあった。
清華大学社会学科教授の李丁讃は次のような例を挙げる。90年代に台湾で盛んになった「町づくり運動」は、理想を抱く多くの熱血青年を惹きつけ、若者たちが地方に出ていったが、その多くは失敗した。これも「一般住民の需要とマッチしない」ことが主な原因だった。
例えば、広く知られている嘉義県新港の町づくり計画の中心的存在「新港文教基金会」は、最初は奉天宮に隣接する中山路で「緑化美化」プロジェクトを進め、これによって新港の宗教観光を盛んにしたいと考えた。しかし、屋台の商売や観光客の駐車のニーズを考えなかったため、地元住民の激しい反対に遭い、何度も話し合いを重ねても意見が一致せず、町づくり計画は頓挫したのである。
しかし、大学進学率がほぼ100%になった現在、エリートを自負する学生はいない。社会運動の第一線に立っていても、自分は指導者でも救世主でもなく、「群衆の一人」に過ぎないと考えているのである。
例えば、労働者運動で高く評価されている「青年労働九五連盟」は、設立から3年間で、アルバイトや派遣で働く若者100人近くの正当な権益を勝ち取ってきた。彼らの成功の一因は、自分自身や周囲の同級生が同じように「搾取された」経験を持っているため、被害を訴える人の身になって考えることができる点にある。そのため、彼らは「仲間」として活動し、被害者が自分の権利を認識するのを助け、必要な時には法律的な支援を行なう。だが、被害者に代って何かを決めることはせず、また団体行動への参加を強制することもない。(28ページの記事を参照)
陳信行は、こうした「主導」から「サポートへ」、「啓蒙」から「主体性尊重」への変化こそ、人々の共鳴を得られ、活動を根付かせることのできるカギだと考えている。
楽生院を守るために2007年4月中旬に行なわれたデモ行進には全国のさまざまな学校から数千人の学生が集まった。六歩進むごとに一回跪くという方法で、楽生院のために声を上げた。