文芸の輝きに出会う ——故人の影を追い 想いを新たにする場

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2017 / 2月

文・陳群芳 写真・莊坤儒 翻訳・山口 雪菜


生涯を膠彩画の発展に捧げた林之助は「台湾膠彩画の父」と称えられる。呉濁流は雑誌『台湾文芸』を創刊し、呉濁流文学賞を創設して今も優れた文学作品の発掘に貢献している。近代水彩画家の蕭如松は、多数の教え子を芸術の道へと導いたことで知られる。

彼らは、日本時代に建てられた宿舎や、清の時代の三合院で長年暮らした。その旧宅を訪ね、彼らが過ごした空間から、その生活を肌で感じてみてはいかがだろう。


竹垣の中のアトリエ

晴れ渡った空と濃い緑が日本式の木造建築に映える。屋内に入ると外の喧騒と隔絶され、まるで都会のオアシスのようだ。ここは、台中市柳川渓に近い林之助記念館である。2015年に修築して一般開放されたこの空間は、かつて台中師範学校(現在の国立台中教育大学)が林之助の住まいとして用意した宿舎だった。林之助はここで30年余り、美術教育と絵画制作の日々を送った。

林之助は台中の名家に生まれ、12歳の時に日本に留学、後に東京帝国美術学校(武蔵野美術大学の前身)で絵画を学んだ。24歳の時に作品『朝涼』で日本の帝展(帝国美術院展覧会)に入選し、その後も台湾と日本の画壇で数々の賞を取ってきた。

林之助が専門とした膠彩画は、かつては日本画または中国画第二部と呼ばれたが、第二次世界大戦が終わると、膠彩画は政治的要因から台湾省全省美術展で扱われなくなった。そこで林之助が奔走し、「膠彩画」という名称で台湾の画壇に一角を占めることができるようになったのである。このことから、林之助は「台湾膠彩画の父」と称えられている。

戦後、林之助は台湾へ戻って台中師範学校で教鞭を執ることとなり、学校の手配でこの宿舎に入居し、柳川渓の河畔での暮らしが始まった。竹垣に囲まれた家の中は自分のスタイルでデザインしてアトリエを設け、庭には池を作り、鶏と孔雀を飼った。屋内は改造して吹き抜けにし、天井にはLINの文字をデザインした。林之助記念館の黄位政館長によると、旧宅の修復に当たっては細部を詳細に研究し、可能な限り本来のデザインを留めたと言う。林之助の当時の斬新なアイディアは今も高いデザイン性を感じさせる。

アトリエの一方の壁にはさまざまな色の顔料の瓶が整然と並べられている。デスクには画筆や膠鍋などが当時のまま残され、書架には林之助の最後の未完成の作品が飾られている。ここに林之助がいた時がそのまま止まっているかのようだ。

林之助がこのアトリエで多くの若い芸術家を育て、多数の傑作を生み出したのと同様、現在この旧宅も美術や文化推進の基地となっている。黄位政は、このような文化的空間は大衆の公的財産であるべきで、美術を広めたいと考えていた林之助の精神を受け継ぎ、入場料も無料にしている。記念館では画廊にように林之助の代表作『朝涼』や『口実』が展示されており、多くの芸術家に展示や公演の場を提供している。例えば、毎年ここで展覧会を開く新鋭アーティスト海至の「光鹿特別展」では、開館時間を延長し、作品を夜間の屋外空間に投影した。

記念館では不定期に音楽や台中文学などをテーマとした座談会も開かれる。林之助の美意識が感じられる生活空間を通して、多くの人に文化芸術に親しんでもらうためだ。

林之助記念館には陽光が降り注ぎ、旅人がその美を発見してくれるのを待っている。黄位政は、台中州庁や台中文学館といった台中各地の歴史的建築物を、美しいネックレスのように一つにつなげたいと考えている。

鉄血の詩人、文壇への多大な貢献

新竹県新埔鎮にある呉濁水の旧宅は、伝統的な三合院建築で、青空と黄色く実った田圃の間に赤い瓦屋根が燕尾のように美しい曲線を見せる。

呉濁流旧宅の「至徳堂」には呉家の祖先が祀られている。祖先が大陸から渡ってきてここに根を下ろし、呉濁流は五代目に当たる。1840年竣工の旧宅は戦火にも見舞われ、幾度か改築されて2009年に今の姿になったが、子孫の多くは都会へ出て行き、至徳堂に祖先を拝みにくる人も少なくなった。現在ここを管理する七代目、呉濁流を大叔父と呼ぶ呉戴堯は、歴史的にも文化的にも貴重な建物を廃れさせたくない、また文壇における呉濁流の貢献を後世に伝えたいと考えた。そこで親族と話し合い、新竹県文化局の協力も得て仏堂を修築し、2011年に一般公開したのである。

呉濁流の旧宅は、彼が若き日を過ごし、文学の基礎を育んだ場である。幼い頃に、漢詩を書く祖父の呉芳信とともに左側横堂の一番手前の部屋に暮らしたことが、その創作の基礎となった。友人を訪ねたり、旅をしたりといった日常が呉濁流の詩の題材となった。「詩で日記を書いていたようなものです」と呉戴堯は言う。呉戴堯が学校に通っていた頃、バスで家に帰る途中、新埔大橋にさしかかると、満員の静かなバスの中に突然「百丈の長橋 緑水湾、欄にもたれ回首すれば旧青山」と吟ずる声が響き渡った。大叔父の呉濁流が同じバスに乗っていて、帰郷する喜びに思わず自作の「過新埔橋」を吟じたのである。

師範学校を卒業した呉濁流は、新竹や苗栗の多くの学校の教師を務め、第二次世界大戦中は南京に赴いて記者になった。日本統治時代から戦後、そして二二八事件までを経験し、社会をリアルに描き批判する小説を多く著している。『水月』『アジアの孤児』『無花果』『台湾連翹』などの作品は、時代に翻弄され、根を失った台湾人の漂泊感を描き切った作品である。

大家族に生まれた呉濁流は、幼い頃の記憶を作品に散りばめた。作品名である無花果(イチジク)や台湾連翹(タイワンレンギョウ)なども、旧宅の庭に植えられていた植物だ。

学校教員、新聞記者、作家、詩人などを経てきた呉濁流は、1964年に雑誌『台湾文芸』を創刊し、鍾肇政、七等生、黄春明といった後の著名作家を育てた。さらに1969年には退職金を投じて「呉濁流文学賞」を設立し、今も文学を志す台湾の若者を奨励している。

1976年、呉濁流は旧宅を台湾文芸資料館として開放しようと考え、書架にペンキを塗り、ガラスの扉をつけた。嬉しそうにその計画を語る表情を呉戴堯は今も覚えているという。しかし同年10月、呉濁流は病で世を去った。

今年78歳になる呉戴堯は無償で旧宅を管理しており、常設展の形で呉濁流の生涯を紹介している。201611月には新竹県文化局が新竹文学館としてここで新竹出身の作家も紹介するようになり、呉濁流の遺志が引き継がれた。

ここには呉濁流の作品のファンや研究者が、呉濁流文学の源に触れようと訪ねてくる。呉戴堯はこの旧宅を活用した文芸活動などの申し出を歓迎しており、台湾文壇の振興に力を尽くした呉濁流の生涯を、より多くの人に知ってもらいたいと考えている。

愛情あふれる蕭先生

新竹県竹東鎮の蕭如松芸術パークは敷地面積600坪に日本式の宿舎が5棟点在し、それぞれ故松居、松画廬、松和廬、松香廬、松言堂と名付けられている。その中の故松居こそ、台湾近代水彩画に重要な地位を占める蕭如松の旧宅だ。

1946年に入居し、1992年に逝去するまで、蕭如松は人生の大半をこの家で過ごした。旧宅には蕭如松が暮らしていた当時の様子がそのままに保存されている。規律正しい生活を重視していた蕭如松は、毎朝5時に起床し、いつも同じ道を歩いて学校へ行き、7時には学校に着いていたので「お日様を起こす人」と呼ばれていたほどだ。

教室も常にきちんと整頓されていなければならず、敷居を踏んではならず、窓の開け具合から机の上の筆や紙の位置、絵の具を並べる順番まで何もかも厳しいルールが定められていた。こうした細かい要求は、生徒にきちんとした生活習慣を身につけさせるためで、当時の生徒たちは今も感謝している。「蕭先生は私たちに絵の描き方だけでなく、人生に対する態度も教えてくださいました」と語るのは、今は竹東高校で美術を教える張沢平である。

厳しい教師だっただけではない。蕭如松は子供と生徒を深く慈しむ優しい父親でもあった。故松居の傍らにはコンクリートの小さな小屋があり、違和感を覚えるが、これは夜中に公衆トイレに行くのを怖がる子供たちのために、自ら建てたものなのである。

シンプルな旧宅には、当時日本から輸入されていた金平糖が置かれている。これは蕭如松が生徒へのご褒美として用意していたものだ。簡素な暮らしをしていた蕭如松だが、生徒には貴重な飴を与えて励ましていたのである。

故松居の横に建つ松画廬には、蕭如松の作品の複製が展示されている。留学経験のなかった蕭如松だが、苦労して独学で印象派やフォーヴィズム、キュビズムなど西洋画のスタイルを学び、書道も学んで筆遣いを研究した。こうして東西の文化を身につけ、それらを融合させることで独自のスタイルを確立したのである。透き通ったガラスや光と影、幾何学模様などを用いることで、蕭如松の作品はモダンなスタイルとなった。

蕭如松の生活の場と作品を展示するほかに、芸術パーク内の松和廬では台湾人アーティストの優れた作品も展示している。松言堂では不定期に文化芸術活動や親子絵画教室、客家山歌教室や藍染教室なども開いており、松香廬では食事も楽しめる。園内には松やスモモ、キンモクセイ、ツバキなどが植えられ、ゆったりとした雰囲気を生み出している。「蕭先生が、そこにいるように感じてほしいのです」と、蕭如松芸術パークディレクターの魯湘媚は言う。今後はさらに作家による詩の朗読や地方文化フェスティバルなどを催し、豊かな美術と文学、音楽に触れられる場にしていきたいと考えている。

人は去ったが、その旧宅を保存することで、その人が芸術や文学、そして人生と向き合った時間に触れることができ、私たちに残してくれた貴重な経験と向き合うことができるのである。                                                                            

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Refined Elegance: The Stylish Homes of Painters and Poets

Chen Chun-fang /photos courtesy of Chuang Kung-ju /tr. by Scott Williams

Lin Chih-chu devoted his career to ni­honga, or Japanese-style painting, and came to be known as “the father of Taiwanese ni­honga.” Wu Zhuo­liu founded Taiwan Literature and Arts magazine and established the Wu Zhuo­liu Prize for Literature, an institution that is still encouraging the production of outstanding work today. Watercolorist Xiao Ru­song guided countless students into the arts.

Let’s take a peek at their lovely old homes, the lives they lived, the work they did, and the education they provided to others.


An aesthetic hub

The old Japanese-style wooden home is lovely against its backdrop of bright, clear skies and brilliant green trees. It is an urban oasis, worlds away from the noise of the heavy traffic outside. The home on the banks of Tai­chung’s Liu­chuan Creek used to belong to Lin Chih-chu (1917–2008), and now serves as a memorial to the man and his work. 

The son of a prominent Tai­chung family, Lin was sent to school in Japan at age 12, and went on to study art at what is now the Tokyo University of the Arts. His long career in the arts was punctuated by numerous awards from the Taiwanese and Japanese arts communities, beginning with the selection of his painting Morning Chill for Japan’s Imperial Art Exhibition when he was just 24 years old.

Lin’s specialty was ni­honga, a Japanese style of painting also known as tō­yōga. Although the style was generally omitted from post-World-War-II exhibitions in Taiwan for political reasons, Lin’s tireless efforts helped rehabilitate and preserve it and ultimately earned him the nickname “the father of Taiwanese nihonga.”

When Lin returned to Taiwan after the war, he took a teaching position at the Taiwan Provincial Tai­chung Normal School and moved into the home the school provided on the banks of Liu­chuan Creek. There, he reshaped the living and work spaces inside the compound’s bamboo fence to his own taste, building a reflecting pool in the garden, allowing chickens and peacocks to roam the grounds, removing the traditional Japanese raised wooden floor, installing black floor tiles in a pattern like the character 回 (hui—“return”), and creating a pattern based on the letters of his surname on the ceiling. ­Hwang Wey-jeng, the memorial’s curator, says that every effort was made to preserve such details and incorporate symbols designed by Lin into the building’s restoration. For example, the figure on the main gate was based on Lin’s original ceiling design. 

Lin’s studio is one of the memorial’s high points. It includes an entire wall covered with jars of pigments arranged into rows by colors, as well as his pens and brushes, and the pot he used to heat the gums used in his preferred painting style. It even includes his last painting, mounted in a frame off to one side of the room. It is as if someone has turned back the clock, causing Lin’s old studio to reappear before our eyes in all its former glory.

Reborn as an aesthetic hub, ­Hwang thinks that the old house is a public asset. In keeping with that thought and a desire to maintain Lin’s commitment to spreading the arts, the memorial does not charge for admission. It serves its visual feast to all comers as if it were an art gallery, featuring such representative examples of Lin’s work as Morning Chill and Good Day, and also provides a platform for other artists to exhibit their work.

The memorial occasionally arranges discussions on a variety of topics in the arts, and has even set Lin’s life story to pastoral music. It also encourages the use of every­day language when talking about culture and the arts.

Moving forward, ­Hwang is hoping to link Tai­chung’s historic buildings, including the old city hall, Tai­chung Literary Park and other cultural destinations together into a string of “cultured” pearls.

One heart, one mind

The old home of Wu Zhuo­liu (1900–1976) in Hsin­chu’s ­Xinpu Township is a san­he­yuan (a traditional home built around three sides of a courtyard) situated between blue skies and golden rice paddies.

Known as the ­Zhide Tang, the home is also the site of the Wu family’s ancestral hall. The old san­he­yuan has experienced numerous changes since it was first built in 1840, including several renovations prior to its 2009 restoration. Wu Zai­yao, a seventh-generation member of the Wu family and Wu Zhuo­liu’s great-nephew, currently manages the property. Zai­yao was unwilling to see the historically and culturally rich home fall into ruin and hoped to make the public more aware of his great-uncle’s literary contributions. He therefore contacted other family members and, with the help of the Hsin­chu County Cultural Affairs Bureau, first arranged the building’s restoration and then opened it to the public in 2011.

Wu Zhuo­liu built his literary foundations as a boy in the house. His literary awakening came early, inspired by a childhood spent living with his grandfather, poet Wu Fang­xin, in a small room at the front of one wing of the home. Wu Zai­yao says that his great-uncle’s poetry is “like a diary in verse,” filled with travels and visits with friends.

Wu taught at several schools in Hsin­chu and ­Miaoli after graduating from normal school, and worked as a journalist in Nan­jing during World War II. He experienced the period of Japanese rule in Taiwan, the island’s return to Chinese rule, and the February 28 Incident, and produced numerous works of fiction informed by social realism and criticism. Works such as Orphan of Asia, The Fig Tree, and Taiwan Forsythia offer eyewitness accounts of Taiwan’s recent history and depict the sense of rootlessness that many Taiwanese had during that period.

Wu founded Taiwan Literature and Arts magazine in 1964, and through it fostered the early development of many well known writers, including ­Chung Chao-­cheng, Qi­deng ­Sheng, and ­Huang Chun-ming. In 1969, he used his pension fund to establish the Wu Zhuo­liu Prize for Literature, an award that continues to provide encouragement to young Taiwanese writers today.

In 1976, Wu decided to turn the old family home into an archive for Taiwanese literature, with the idea that he would fill it with the work of Taiwanese writers. Wu Zai­yao still remembers his great-uncle happily describing plans to paint bookcases and fit them with glass doors, and to transform the space into a treasury of Taiwanese letters. Unfortunately, Wu Zhuo­liu passed away from an illness in October of that same year, long before the bookshelves could be filled.

A similar passion for literature compels the 78-year-old Wu Zai­yao to continue overseeing the old home by himself and without pay. Nowadays, the residence holds regular exhibitions aimed at introducing the public to Wu Zhuo­liu’s life, displaying his work, and inviting visitors to read it. The Hsin­chu County Cultural Affairs Bureau established an exhibit on Taiwanese authors in the home in November 2016, furthering Wu Zhuo­liu’s lifelong mission.

Wu Zaiyao has also extended an open invitation to individuals and institutions to organize activities at the home aimed at informing the public about his great-­uncle’s life and dedication to Taiwanese literature.

A loving teacher

The Xiao Ru­song Art Park consists of five Japan­ese-style buildings located on a site of roughly 2000 square meters in Zhu­dong Township, Hsin­chu County. One of these five, the “Old Pine Residence,” is the former home of the watercolorist Xiao Ru­song (1922–1992).

Xiao spent the majority of his life in the home, living there from 1946 until his death in 1992. It still retains the same simple furniture and overall look it had then, with details like tiny nubs of crayon on the desk providing visitors with a sense of his almost ascetic lifestyle.

Xiao taught in and around Hsin­chu for more than 40 years, giving his life to painting and teaching the arts. Hardworking and conscientious, he rose at five o’clock in the morning, walked the same path to school, and always arrived on time at seven. People joked that he got the sun out of bed every morning. Xiao was also a stickler who helped his students form useful habits through demands that his classroom be kept neat and tidy, and that the papers, brushes and pigments on his own and his students’ desks be arranged just so. “Mr. Xiao didn’t just teach his students to paint; he taught them a way of life,” says ­Zhang Zhe­ping, a former student of Xiao’s who is himself a fine arts teacher at Zhu­dong Senior High School.

In addition to being a strict teacher, Xiao was also a kind and compassionate father figure to his students and children in general. In fact, he built the eye-­catching outhouse that stands outside his wooden home with his own hands for children afraid to venture all the way to the public toilet at night.

Never having studied abroad, Xiao taught himself, constantly studying the works of Impressionism, Fauv­ism, Cubism, and other Western styles, while also studying and practicing with calligraphers to gain better control over his brushes. Xiao’s integration of East and West gave his work a distinctive character. He used his command of light and color, images seen through glass, and geometric forms to depict realistic scenes and give his work a modern feel. The building next to Xiao’s Old Pine Residence now exhibits reproductions of his paintings.

In addition to describing Xiao’s life and work, the park’s buildings also exhibit outstanding work by other Taiwanese artists, hold occasional arts-related events, and arrange DIY indigo dyeing activities. The building known as the “Pine Fragrance Hut” even serves carefully made meals amid pine trees and osmanthus flowers that add to the compound’s relaxing atmosphere. “We hope to manifest Xiao’s spirit in every part of the park and to bring it into our visitors’ lives,” says park manager Lü Xiang­mei. In the future, she hopes to develop the park further, hosting local cultural festivals and inviting writers and poets to read their work there to transform it into an aesthetic, literary and musical destination.

By conserving and restoring these old homes, their managers are enabling the public to appreciate the precious gifts that they still have to offer. Tarry in one for a little while, sample its literary and artistic offerings, and introduce a bit of its elegance into your workaday life!

偶遇文藝時光 聆賞故人翩影

文‧陳群芳 圖‧莊坤儒 翻譯‧Scott Williams

林之助,一生致力膠彩畫的發展,被譽為「台灣膠彩畫之父」;吳濁流,創辦《台灣文藝》雜誌與吳濁流文學獎,至今仍鼓勵後起之秀創造精彩作品;蕭如松,台灣近代水彩畫家,培育無數學子走上藝術之路。

他們在日據時期的宿舍、清朝時的三合院等居所裡,度過人生重要的歲月。讓我們一起走訪故居,感受名家在屋舍裡生活、創作、教學的點滴。


竹籬笆畫室 美感基地

清朗天空與翠綠樹影,襯映著日式的木造建築,走進屋內,車水馬龍全都隔絕在外,彷若都市裡的綠洲。這裡是位於台中柳川溪畔的林之助紀念館。這座2015年整建開放的空間,原為台中師範學校(現國立台中教育大學)配置給林之助的宿舍,林之助在此度過三十多年美術教學與繪畫創作的日子。

林之助出身台中望族,12歲赴日留學,後來更進入東京帝國美術學校習畫,24歲時便以〈朝涼〉入選日本帝展,一生在台日畫壇得獎無數。

林之助所擅長的膠彩畫,過去被稱為東洋畫、國畫第二部,在二次大戰後,更因政治因素,一度遭到省展除名。在林之助長期奔走努力,提出以膠彩畫為其正名,讓膠彩畫得以延續,為台灣藝術保留一個瑰麗的世界,因此獲得「台灣膠彩畫之父」的美名。

二戰後,林之助回到台灣,任教於台中師範學校,並搬進學校配置的宿舍,開始他在柳川溪畔的生活。林之助在竹籬笆內,以自己的風格塑造居家空間與畫室,院子裡有造景的水池,養了雞和孔雀,拆掉日式建築傳統的土台,讓室內挑高,鋪上黑色回字地磚,天花板還以LIN的字樣設計圖案。林之助紀念館館長黃位政表示,故居的修復曾仔細研究建築的細節與文化意涵,盡可能保留原有設計,並將其設計符碼融入,例如紀念館大門上的圖樣,便是取自原本天花板的設計。這些林之助當年十分新穎的想法,至今看來仍是設計感十足。

林之助作為畫室的房間更是整座紀念館的亮點,一整面牆上擺滿了各色的顏料,紅黃藍綠紫灰黑,按顏色整齊的排放,就像一瓶瓶精靈的魔法。辦公桌上林之助的畫筆、熬煮膠質的鍋子都完整保留,一旁的畫架上還有林之助生前最後一幅未完成的畫作,時空彷彿凝結,將林之助畫室重現在世人眼前。

如同林之助在畫室裡培養許多藝術家,創作無數精彩的作品,故居現在則化身為美感基地。黃位政認為,這樣的文化空間,應是屬於大眾的公共財,且延續林之助熱中藝術推廣的精神,不收門票。紀念館裡像藝廊般展示林之助代表的畫作,如《朝涼》、《好日》等,也提供藝術家展演的舞台,例如每年固定展出的青年藝術家海至的「光鹿特展」,館方除了提供場地展示作品,更延長開館時間,讓藝術家在夜晚以光鹿投影在紀念館後方的戶外空間,為民眾帶來美麗的視覺饗宴。

紀念館裡不定時舉辦各種藝術座談,例如以牧歌音樂搭配分享林之助的生平故事,或是邀請專家談台中文學。期望在林之助充滿美學的生活空間,以接近常民的方式暢談文化藝術。

陽光灑落在林之助紀念館,靜靜等待旅人發覺它的美好,黃位政期望能將台中各地的文化亮點,例如台中州廳、台中文學館等歷史建築串連,成為一條璀璨的珍珠項鍊。

鐵血詩人  一心一德振文壇

來到新竹縣新埔鎮的吳濁流故居,傳統的三合院建築,襯在藍天與黃橙橙的稻田間,紅磚瓦與屋簷精細燕尾更顯得耀眼。

吳濁流故居「至德堂」為吳家祖堂,自祖先來台開墾後便世居於此,傳至吳濁流已是第五代。1840年創建的故居歷經多次時代變遷、戰火摧殘,在2009年整建修復前,已有過數次重建。隨著不斷開枝散葉,後世陸續在外打拚,祖堂隨吳濁流的過世逐漸沒落。現任管理者是吳家第七代、稱呼吳濁流為叔公的吳載堯,不忍見這富有歷史與文化意涵的建築在歲月中頹圮,也希望後世能緬懷吳濁流對文壇的貢獻。他與家族成員溝通,在新竹縣文化局的協助下,修復祖堂,並於2011年對外開放。

吳濁流在故居度過他年輕的歲月,為他的文學涵養奠定深厚的基礎。童年與寫漢詩的祖父吳芳信一起住在左側橫堂最前方的小屋,成為他創作的啟蒙。在吳濁流的詩集作品裡,訪友、旅行等,都能成為創作題材,「就像是用詩寫日記」,吳載堯回憶自己求學時,有次搭車回家的路上,行經新埔大橋時,在一片安靜、擠滿人的車上,忽然傳起吟詠詩作的聲音,「百丈長橋綠水灣,憑欄回首舊青山,……一番歸里一番老,廿載風塵鬢髮斑。」原來是叔公吳濁流與他同班車,竟忘情地以自己的詩作〈過新埔橋〉表達回鄉的喜悅。

師範學校畢業的吳濁流曾在新竹、苗栗許多學校擔任教師,也曾在二戰期間赴中國南京當記者。歷經日據時期、台灣光復、甚至二二八事件,吳濁流創作許多具有社會寫實批判精神的小說,《水月》、《亞細亞的孤兒》、《無花果》、《台灣連翹》等,道出台灣人在大時代下的無根漂泊之感,為台灣歷史留下見證。

生長於大家庭的吳濁流,寫實的將童年的回憶,融入創作,甚至著名作品更以故居栽種的無花果、台灣連翹為命名。

除了老師、記者、作家、詩人等多元身分,吳濁流在1964年更創辦《台灣文藝》雜誌,為台灣文學打造舞台,為台灣文壇培養許多名家如鍾肇政、七等生、黃春明等。還在1969年以退休金籌辦「吳濁流文學獎」,至今仍每年鼓勵著台灣文學界的有志青年。

1976年始終心繫台灣文壇的吳濁流,有意將老家打造成台灣文藝資料館,計畫蒐集台灣作家的作品,吳載堯至今仍記得當時他開心地訴說自己計畫為書櫃上漆、加裝玻璃門,在這空間放置台灣文學作品成為寶庫,那種欣喜神情卻在同年10月因病驟逝而消散,留下故居裡空蕩蕩的書櫃。

也許正是那股振興文壇的熱血,讓現年78歲的吳載堯獨自無償管理故居,目前故居以常設展的方式介紹吳濁流的一生,也放置吳濁流的著作,歡迎民眾在故居閱讀。2016年11月,新竹縣文化局更以新竹文學館的規格,介紹新竹的文學作家們,讓故居承接吳濁流的遺志。

吳載堯表示,故居有吳濁流的書迷帶著書回娘家,或是研究者前來一探吳濁流文學的起源。他歡迎各方前來舉辦活動,讓更多人知道這位一生以振興台灣文壇為己任的吳濁流。

惜才愛子的蕭老師

位於新竹縣竹東鎮的蕭如松藝術園區,是占地600坪擁有5棟建築的日式宿舍群,分別為故松居、松畫廬、松和廬、松香廬及松言堂。其中故松居便是台灣近代重要的水彩畫家蕭如松的住所。

自1946年遷入直到1992年離世,蕭如松在此度過人生大半的歲月。故松居裡保留了蕭如松住所的樣貌,簡單的家具,桌上用到短到不能再短的蠟筆,讓人感受他樸實的生活。

蕭如松在新竹地區任教四十多年,一生奉獻於美術教育與藝術創作。處事嚴謹的蕭如松,每天5點起床,走一樣的路線去上課,7點準時到校,被稱作「叫太陽起床的人」。課堂上從教室整潔、不能踩門檻、窗戶開闔的位置,到課桌上畫筆畫紙的位置、顏料擺放的順序,蕭如松都有規定的原則。這些細瑣的要求,都是蕭如松教導學生生活習慣的點滴,至今仍讓許多學生感念在心。「蕭老師教給學生不只有繪畫技巧,更有人生態度。」曾是蕭如松的學生,現任教於竹東高中的美術老師張澤平說。

除了是位嚴師,蕭如松更是位愛孩子、愛學生的慈父。在一片木造的日式建築中,故松居旁有棟水泥砌成的小屋格外顯目,原來它是蕭如松為了孩子不敢在半夜到公廁上廁所,特地親手在屋旁為孩子蓋的。

在簡樸的故居裡有幾包當時日本進口的金平糖,是蕭如松用來鼓勵學生的「功力糖」,生活清苦的蕭如松,卻用珍貴的糖果來獎勵學生,顯見他對學生的愛護。

故松居旁的松畫廬裡,展示了蕭如松的複製畫作。不曾出國留學的蕭如松,透過自修苦學,不斷研究揣摹印象派、野獸派、立體派等西洋畫派的風格,也跟隨書法家研習書法、練字,精進他運筆與線條的掌握,融合東西方文化,讓蕭如松的畫風獨樹一幟。擅長以玻璃透視、光影色彩、幾何圖形來描繪寫實景物,使蕭如松的畫作具有摩登的現代感。

除了蕭如松的生活過往及作品展示,園區的松和廬展覽國內藝術家的優秀作品,松言堂裡則不定期舉辦各種藝文活動,親子畫室、故事屋、客家山歌班、藍染DIY等。松香廬裡精心製作的餐點,園區裡種植的松樹、李樹、桂花、茶花,讓整個園區散發悠閒的氛圍,「我們希望讓蕭老師更貼近生活,讓他的精神出現在園區的每個角落。」蕭如松藝術園區總監呂湘媚欣喜而期盼地說。未來更規劃邀請作家朗讀詩歌、舉辦地方文化節等,為大家營造富含美學、文學、音樂的蕭如松藝術園區。

故人雖已遠去,但透過故居的保留與再生,讓人駐足其中品味他們在藝術、文學,在處世態度裡留下的翩翩身影,聆賞他們留給後世的珍貴禮物。                           

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