教室の外の人類学者
その夏、宋世祥が台湾に帰ると、文化評論家の楊照による人類学者クロード・レヴィ・ストロースの名著『悲しき熱帯』のブックレビューがちょうど誠品講堂(Eslite Forum)で開かれた。マイナーなテーマに人は集まらないと宋世祥が思っていたら、なんと会場に空席はなかった。
思いもよらぬ一般の人々の人類学への興味が、宋世祥の想像を打ち壊した。「人類学は学校の外で役に立つのかもしれない」そんな想いが深く心に植えつけられ、その年の後半の二つの経験が、その想いを決定的なものにした。
2012年を宋世祥は「軽薄短小」の年と形容する。「ミニ」トリップや「ショート」ムービーといったパーソナルな感情追求の概念が次々現れた。宋世祥は、松山文化クリエイティブパークで開催された「旅」に関する講座で、風尚旅行社総経理・游智維と洪震宇が人類学の緻密な観察手法を旅のプランに応用するのを聞いた。数日後、クリエイティブ・エキスポ・台湾の座談会では、奇想創造(GIXIA)のCEO謝栄雅が、人類学的観察を「大同電鍋」のデザイン改善案に応用していた。
一つまた一つ、人類学応用の成功事例に出会い、人類学は学校を出てパーソナルな仕事や経営と結びついたり、地方で実践されていると宋世祥は気づいた。そこでその年、あらゆる業界の人類学者を探そうと決めて、フェイスブックページ「百工の中の人類学者」を立ち上げたのだった。名前が決まると、年末には仲間数人と「人類学者的」仕事人を探し始めた。
「人類学者」という肩書は堅苦しいが、それは彼の対象ではなかった。まずは人類学者の枠を打ち破り、職種のスペクトルを広げることが目標だ。「人類学科を出ても研究職に就かなかったり、専攻は違うのに言行や価値観が人類学者と同じ、そういった人を探しました」宋世祥の努力はすべて「役に立たない学問」という先入観に挑戦するためだった。欧米では人類学の応用はビジネスやデザインの分野で早くから前例がある。例えば、インテルはかつて人類学者を雇用して、各地の潜在的ユーザーを調査した。人類学者シンシア・コーニグはインドでのフィールドワークで、女性が水汲みに時間と労力を費やしているのを見て「ウォーターホイール」を発明し、不便な生活を大いに改善した。
一般の印象を変えるために、ページ「百工」を立ち上げてからも宋世祥の足取りは止まらない。翌年、数多くの座談会を開催し、年に一度の「台湾人類学と民俗学学会及び世界人類学会連合会」にも「百工の中の人類学者」フォーラムを特別に設けて、各業界の専門家を招き、人類学の実務への応用を語り合った。
2016年出版の『百工の中の人類学者』は、宋世祥が2年をかけて台湾全土を歩いて人類学に関わる人々に行ったインタビューの集大成である。出張宴会業者もいれば、漫画家、ダンサー、Uターンした社会起業家もいる。
「ワールドデザインキャピタル台北2016」実行委員長の呉漢中は、人類学的手法をデザイン分野に応用した典型的な実践者である。交通大学土木工学科、米デューク大学MBA、呉漢中の経歴に人類学はない。台湾大学大学院建築・城郷研究修士課程で地域改造に取り組んだのが、唯一の繋がりである。
米国留学中、ビジネスマネジメントと消費者研究、マネジメント知識の多くが人類学の範疇であることに気づく。台湾に戻ると呉漢中は若水国際公司に就職、後に「ウィー・クリエイト・ラボ(我們創造事務所)」を創設し、リサーチを行い、著名ドリンクブランド「春水堂」や「ラベンダーコテージ」の繊細で心に響く物語を掘り起こし、新しいブランドバリューを構築した。
「老寮ホステル」、「Valai農創店」を創設した苗栗の青年・邱星崴は、2013年に清華大学人類学研究科を卒業してから、Uターン起業した社会的企業「耕山農創」に人類学を応用した。
「先に『桂花巷』があって、桂花は後から。南庄には元々桂花はありませんでした」邱星 崴は観光客を案内して苗栗南庄の吊橋、集落、桂花巷へと、南庄の歴史を解説する。
故郷へ帰って邱星崴が選んだ従来とは異なる手法は、老寮、Valaiの命名、経営に止まらない。至るところ人類学の実践に溢れ、地元文化に寄り添う精神で南庄のあれこれを報道する地元誌『拾誌』も、若いチームがフィールドワークの手法で農村の姿を新たにした革新の作である。
『百工』の出版は宋世祥の計画の一つに過ぎない。次はフェイスブックページに記事を書きつつ、その知名度を知識コンテンツ生産に携わる商業サイト運営に転換したいと狙う。
宋世祥が座談会参加者に手で「人」の字を作ってもらった。緻密に観察し、現場に密着すれば、誰でも人類学者となる。