原動力は子供の笑顔
2006年。王建民の大リーグ入り以外、良いニュースはなく、社会は沈鬱ムードだった。
「やる気が出ず、客入りにも影響しました。演劇人にできるのは何か、いつも考えていました」と話す紙風車文教基金会・執行長の李永豊だが、子供が喜ぶことなら元気が出た。
「子供に芝居を見せることはできる。それも台湾全土で演じまくる」夢はこうして生まれた。費用を行政に申請しないことも決めた。政治的かけ引きに巻き込まれないためだ。資金は小額ずつでも時間をかけて募る。李は台湾の力を信じた。
「皆反対でしたよ」紙風車劇団の団長・任建誠が言う。李永豊の突拍子もない構想と、彼に従うことに慣れていてもだ。
「直感的に反対でした。企画が大きいし、自力で資金を集めるなんて。金はどこにあり、どれだけ時間がかかるのか。政府に頼らず、小額の募金に期待するといっても、賛同が得られるのでしょうか?」
企画書が紙風車の会議で回覧されると、呉念真のような友人に意見を請うこともある。だがやっぱり応援してくれるのが仲間だ。映画監督・呉念真は李のあの手この手の要請に応じ、企業や団体に講演に行った。最初は企業に期待していた。呉大先生のネームバリューで企業のトップが加わると思った。
「ところが講演の後、現場でケチ臭い寄付を見るたび、呉念真にこっ酷く言われましたよ。『普段講演したってこんなに安くはない』と」
もっとも、中には説得力ある発起人もいる。あるとき呉は円神出版社董事長・簡志忠が友人を誘った食事会に参加した。簡はおだやかに計画の内容を話した。すぐさま「永靖は私が寄付します」と静かな声と、「台中龍井は俺が」という声も響いた。挫折の後のこんな場面に李は励まされた。
政府に頼らなかったのは、台湾の芸術環境と関係がある。
故郷のために力を出し合う。35万元の募金が集まれば紙風車劇団は必ず公演し、毎回寄付をした個人や企業の名前を貼り出して感謝を伝える。