簡素な暮らしと崇高な理想 国家のために身命をなげうつ 憂国の士の精神に触れる

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2017 / 2月

文・賴廷恆 写真・林旻萱 翻訳・山口 雪菜


台湾の来し方を振り返ると、李国鼎や孫運璿といった政治リーダーの下、台湾は幾度もの危機を転機へと変えて「黄金の時代」を迎え、「アジア四小龍」のトップに躍り出た。今も語り継がれる「台湾経済の奇跡」である。

長年にわたって台湾の政治経済と文化の中心である台北市には、数々の著名人の「旧宅」がある。史跡保存の意識が高まり、その活用や再利用が大きな流れとなり、新たな名所となった。台北市の城南エリアを歩けば、裏通りに「李国鼎旧宅」や「孫運璿記念館」があり、国家のために尽くした先人の精神に触れることができる。


「国の重鼎」の簡素な暮らし

台北市中正区泰安街23号の「李国鼎旧宅」は、日本統治時代の1935年(昭和10年)前後に総督府交通局逓信部の高級官僚用官舎として建てられ、戦後は財政庁長の官舎となった。「台湾のテクノロジーの父」と称えられた李国鼎は1972年にここに入居し、2001年に逝去するまで30年近くを過ごした。

日本時代、台北市は台湾総督府を中心に放射状に発展し、1930年代までに当時の「幸町」、今の仁愛路、徐州路、済南路、杭州南路一帯が完成、193545年には急速に住宅地が広がり、学校や官舎が林立していたため「学校街」「官舎街」と呼ばれた。「李国鼎旧宅」の当時の所在地は幸町150-3番地である。

抗日戦争と国共内戦を経て国民政府は台湾に移転し、大陸各地出身の外省人が「台北人」となった。南京出身の李国鼎もその一人だった。李国鼎は公費でケンブリッジ大学に留学して数学と物理学を専攻、さらに原子物理学と低温超電導を研究し、27歳の時に抗日戦争のために帰国した。そして後に台湾へ移り、「台湾経済発展の縮図」と呼ばれる後半生を送った。

李国鼎と妻の宋競雄は抗日戦争のために計13回転居し、一年に4回引越したこともあった。1948年に台湾に移った当初は台北市臨(^街付近の台湾造船の宿舎に入居し、後に今の「李国鼎旧宅」に移り住んだ。

李国鼎旧宅は当時、官舎用の建築標準で等級が最も高い「高2種建築」とされ、敷地面積は約300坪、建坪は55坪あった。現在も旧宅の保存状況は良く、応接間や書斎、寝室の内装や家具から庭の草花まで、ほぼ生前のまま残されている。庭にはスターフルーツやキンモクセイ、ツバキ、ウメなどの木が植えられ、サクラも11株あり、花見の名所としても知られている。

李国鼎旧宅は木造で、内部は和洋折衷、床板がギシギシ鳴り、壁には作り付けの大きな棚がある。門に貼られた春聯には「主賜平安(主が平安を賜る)」とあり、玄関には「基督是我家之主(キリストこそ我家の主)」という文字とキリストの絵が掛けられており、李国鼎夫妻が敬虔なクリスチャンであったことがわかる。

「ここには李国鼎夫妻の暮らしがそのまま残されており、これは台湾で保存されている旧宅では非常に珍しいことです」と李国鼎科技発展基金会の万其超・事務長は言う。ここで目にするのは「物質的に簡素」で「規律ある生活」である。「例えば、ほぞが緩んでいる椅子は紐で縛ってあります」と話す万其超は、夫妻は質素な暮らしを守ってきたと語る。

李国鼎の書斎の棚には中国将棋の駒とクルミが置かれている。万其超は、これは李国鼎が発明した「万歩計」なのだと言う。ウォーキングを1回したら将棋の駒を一つ置き、10回になったらクルミを一つ置くというのである。こうした暮らしの細部から、李国鼎の生活がいかに規律正しいものであったかがうかがえる。

基金会は、旧宅を多くの人に見学してもらおうと、毎月ここで講演会などを12回催しており、かなりの効果を上げていると言う。今年は、屋上に菜園を造って経費を補う予定である。これは現代のエコロジーの潮流にかなうとともに、台湾を時代の先端へと率いてきた李国鼎のイメージにもかなう行動である。

旧宅のカレンダーは、李国鼎が亡くなった2001年のままになっている。旧宅の横にある、かつての使用人用の家屋は展示館へと改装された。展示館では、李国鼎の生涯を紹介するドキュメンタリーフィルム『競走財経版図——李国鼎』が上映されており、その事績に触れることができる。これは台達(Delta)グループの創設者で名誉董事長でもあり、李国鼎科技発展基金会の董事長を務める鄭崇華が出資して制作したフィルムである。

かつて「国の重鼎」と称えられた李国鼎の生涯について、台湾大学元学長の孫震は「李国鼎がいたからこそ、台湾は輸出加工区やベンチャーキャピタル、情報産業、サイエンスパーク、光電産業などを有する。その一つ一つが開花して国の経済は成長し、国民の所得は増加し、暮らしは豊かになった。一方で李は高齢となり、今も古びた日本式の官舎で国事に勤しんでいる」と述べた。

これについて万其超は、旧宅を見ればわかる通り、李国鼎夫妻は敬虔なキリスト教徒であり、「精神的な暮らしは非常に豊かだった」という。物質的に清廉で簡素な生活は「夫妻にとっては少しも辛いものではなかったのです」。

 

経済の奇跡を導いた永遠の行政院長

かつて台湾で「財政経済の三傑」と称えられた人々がいた。1963年に逝去した尹仲容、1986年に病のために引退した厳家淦、そして長年にわたって台湾経済の発展に大きく貢献した李国鼎である。その後、孫運璿や趙耀東らが三者の理想を引き継ぎ、台湾は農業社会から工業社会への転身に成功し、さらにハイテク産業を発展させることができたのである。

李国鼎と孫運璿は、清廉な憂国の士と言える。二人は生涯にわたって個人の資産を持つことはせず、最後まで官舎に暮らし続けた。

1984年、時の行政院長であった孫運璿は脳卒中に倒れ、病院に担ぎ込まれた。孫運璿は台湾を経済の奇跡へと導きながら、自らは持ち家さえ持とうとしなかった。以前の新聞に、その家族や親戚の話が載っている。孫運璿の長女で台湾大学食品科学研究所の名誉教授でもある孫璐西は、時代背景などから考えて、父親は懸命に働くことしか考えておらず、自分の資産を残そうなどと思わなかったのだろうと語る。また孫運璿と仲の良かった従妹の劉氷琦は、「家を買わなかったのは、そんなお金がなかったから」と述べている。

20141030日に開館した「孫運璿科技・人文記念館」は台北市中正区重慶南路26巷にある。植物園の横門の近くで、孫運璿が行政院長だった時の邸宅である。この建物は、1904年から翌年にかけて台湾銀行株式会社(現在の台湾銀行)の高級官舎として建てられ、戦後は台湾銀行が接収して宿舎とした。過去には、財政庁長の任顕群や、元総統府資政(顧問)の黄少谷が外交部長(外相)在任中にここに暮らしていた。また一時は貸し出されて元国防会議秘書長の顧祝同が1978年まで居住した。

行政院長となった孫運璿は、台湾電力総経理在任中から台北市済南路二段の日本建築の官舎に住んでいたが、済南路の道路拡張で庭と家屋が縮小され、外賓を招くには家が小さすぎるということで、当時の蒋経国総統から他の官舎に移るよう幾度も促された。そうして1980年末にこの敷地800余坪の邸宅に転居し、20062月に逝去するまで26年をここで暮らし続けた。

孫運璿が入居した時、建物の半分はシロアリにやられていたため、その部分は取り壊してモダンな洋館に建て直し、従来の日本式家屋と一体となって「和洋共存」の形となった。この建物は歴史的、文化的に保存の意義があるということで、孫運璿の死後に審査を経て台北市の古跡に指定され修復されたのである。

「孫運璿科技・人文記念館」館長の蔡怡君によると、古跡は洋館と日本家屋の二つの部分に分かれ、前者は孫運璿が生前に公務を行なった場所、後者はプライベートな生活の場だった。孫運璿がいた頃の姿をそのままとどめているのは洋館の応接室だけである。

洋館には、蒋介石総統が揮毫した文字「光被八表」が刻まれた記念碑のレプリカが置かれている。戦後、全台湾の電力施設が戦争で破壊されていた頃、山東省蓬莱県の出身でハルピン工業大学を出た孫運璿が専科学校の学生数百名を集め、不眠不休で5カ月をかけて電力供給を8割まで回復させ、日本人が「3カ月後に台湾は暗闇に包まれるだろう」と揶揄した予言を見事に覆したことを称えた言葉である。

洋館から和風建築へ向かう廊下には生前の家族との写真が多数飾られている。夫人の兪蕙萱と息子とともに庭で撮ったものや、孫とともに床に這いつくばって絵本を読む姿などが見られる。廊下の手すりは息子が取り付けたもので、脳卒中で倒れた後、車椅子を使っていた孫運璿はここで歩行のリハビリに取り組んだ。

日本式家屋の方には、自筆の日記が展示されており、同日記は電子ブックにもなっていて、タッチパネルでページをめくって読むことができる。日記には「私にとって兄弟にも勝る者が脳卒中に倒れ、前後して28回も見舞いに行った」という蒋経国の言葉も記されており、読む者の胸を打つ。また、孫運璿が生前に身につけていた衣服を収めた箪笥の中を見ると、ひとつだけ真新しい裏起毛のカジュアルシューズが目を引くが、蔡怡君によると、これは蒋経国から贈られたもので、孫運璿は「もったいなくて一度も履けなかった」のだと言う。

過去のニュース映像には「永遠の行政院長」と称えられた謹厳な姿が映し出されるが、夫人に宛てたラブレターを見ると、常に「最も親愛なる君へ」と始まり、「私の愛の深さは、世界で最も深い太平洋の海溝にも勝る」と書かれている。館内にはショパンのピアノ曲が流れており、夕食後に夫妻が家具を隅に寄せて、見つめ合いながらダンスをする姿が目に浮かぶかのようだ。

国連脱退、米国との国交断絶、二度のオイルショックなどが続いた激動の時代、孫運璿は行政院長として十大建設をすべて完成させ、サイエンスパークを立ち上げ、また「工業研究院の父」と称えられた。1974年には行政院秘書長の費驊と在米でRCAの研究室主任を務めていた潘文淵とともに林森北路の豆乳店で朝食をとりながら、台湾で集積回路産業を発展させる政策を決定した。

蔡怡君によると、運転手用だった建物は建築家が設計しなおして文化芸術・クリエイティブ商品を扱うエリアをメインとする新館に建てかえられた。外観には大きなガラス面を採用し、庭の緑が映える形となっている。メインの建築物を遮らないよう、新館の一部の空間は地下へ移し、講座や会議、文化芸術活動などに供するスペースとした。例えば、台湾セミコンダクター・マニュファクチャリング(TSMC)と「聯合報」文芸欄が共同開催する「TSMC文学サロン」も定期的にここで開催されている。先人の崇高な理想に追随し、記念館では新旧を結び付け、孫運璿の不朽の精神を今後も広めていきたいと考えている。

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Disciplined Simplicity: Former Residences of Respected Elder Statesmen

Tempest Lai /photos courtesy of Lin Min-hsuan /tr. by Paul Cavey

With Li Kwoh-ting (K.T. Li), Sun Yun-suan, and other distinguished leaders at the helm, Taiwan was able to navigate tumultuous years of crisis and step into a golden age, becoming first among the four fast-growing economies known as the Asian tigers. Discussed with great relish and nostalgia even today, this was the Taiwan economic miracle!

While strolling through south Tai­pei, people today can experience the past through the architecture and atmosphere of K.T. Li’s Residence and the Sun Yun-Suan Memorial Museum, both of which are tucked away in the city ’s side streets.


A national treasure of simple living

Located at No. 3, Lane 2, Tai’an Street in the Zhong­zheng District of Tai­pei and built around 1935, the old home of Li Kwoh-ting (1910–2001) was once the official residence of a high-level civil servant from the Japanese colonial Bureau of Transportation. After World War II, it became the residence of the minister of finance. It was here that Li, known as the “father of Taiwan’s technology,” lived for nearly three decades, from 1972 until his death.

After surviving the Sino‡Japanese War and the Chinese Civil War, people hailing from various parts of mainland China decamped to Taiwan with the Nationalist government in what has been called history’s greatest exodus, and over time became part of the local population. Among them was the Nan­jing-born Li Kwoh-ting, better known as K.T. Li. Funded by scholarships, he had studied mathematics and physics at Cambridge University and conducted research on nuclear physics and low-temperature superconductors. He returned to China at the age of 27 due to the outbreak of the Sino‡Japanese War. More than a decade later, he would arrive in Taiwan and plant the seeds for Taiwan’s rapid economic development.

During the war Li and his wife, Sung ­Ching-­hsiung, moved 13 times due to wartime conditions, and in one year alone they were forced to relocate four times. Upon arriving in Taiwan in 1948, they resided in the company apartments of the Taiwan Shipbuilding Corporation in the small lanes near ­Linyi Street in Tai­pei before moving to what is today known as “Kwoh-ting Li’s Residence.”

K.T. Li’s Residence is a typical example of residential architecture designed for high-ranking officials of the age, and is today protected as a historic monument. The historic site covers an area of about 1000 square meters, and the building itself something over 180 square meters. The former residence is in pristine condition, with original decorations adorning the living room and original furnishings in the study. From the bedrooms to the courtyard, flowers adorn the house much the same as during Li’s time. The walkways in front of the building are lined with starfruit, sweet osmanthus, camellias, and Chinese plum, as well as 11 cherry trees, making this a favorite spot with local people during cherry blossom season.

The main building is constructed of wood, and the interior mixes Japanese and Western elements, with rooms that flow one into another. Upon stepping into the house, the floorboards creak, and the walls and wooden doors give it the feel of a giant cupboard, leaving a deep impression on visitors. “This is one of Taiwan’s few authentic old residences!” says Wan Chi-chao, secretary general of the K.T. Li Foundation for the Development of Science and Technology.

The old residence reflects Li’s penchant for a simple, disciplined life. “When the joints of the dining-room chairs began to loosen, the Lis simply trussed them up with cord,” says Wan, as an illustration of the restraint and rectitude of the couple’s lifestyle.

Wan’s explanation of the Chinese chess pieces and walnuts set out on a low table helps visitors understand the methodical routines of Li’s life. He would walk vigorously a set distance and then place a chess piece on the table. He then marked each round of ten laps by placing a walnut next to the chess pieces, in effect creating a unique pedometer.

Wan notes that the two monthly lectures and other activities sponsored by the foundation help draw visitors to the old residence. He hopes that a plan to create a rooftop garden next year will help to reduce costs, accord with environmental trends, and reflect Li’s lifelong leadership that sought to bring Taiwan to the forefront of science and technology.

The former servants’ quarters of the old residence have also been converted into an exhibition space. Already the space features a documentary film, funded by Bruce C.H. ­Cheng, founder of Delta Electronics and current honorary chairman of the K.T. Li Foundation, examining the life and career of K.T. Li.

“It is thanks to K.T. Li that Taiwan has export processing zones, venture capital, an IT industry, science parks, and an optoelectronics industry,” says Sun Chen, former president of National Taiwan University, about Li, who was considered a national treasure even before his death. “While various industries took root, the economy advanced, people’s salaries rose, and life grew more prosperous, Li slowly grew old still living in the antiquated Japanese-style residence, continuing to work for the good of the country.”

A premier and his economic miracle

Of the “three giants of finance,” during Taiwan’s early stages of economic development, Yin Chung-jung died in 1963 and Yen Chia-kan retired due to illness in 1986. But it was K.T. Li who had the most lasting influence on and made the greatest contribution to Taiwan’s economy. In the subsequent generation, Sun Yun-suan (1913–2006), Chao Yao-dong and others built on the legacy of the three giants, and facilitated Taiwan’s transformation from an agricultural to an industrial society and the shift from traditional industries to high-tech fields.

As public figures of great stature, both K.T. Li and Sun Yun-suan worked selflessly for the good of the country. For most of their lives, neither owned property, and lived instead in government housing for two to three decades, toiling in the public interest.

The Sun Yun-Suan Memorial Museum, which opened on October 30, 2014, is located in Tai­pei’s Zhong­zheng District at Lane 6, Chong­qing South Road Section 2, near the Tai­pei Botanical Garden. It was Sun’s official residence while he served as premier. Constructed between 1904 and 1905, it originally served as a residence for officials from the Japanese-era Bank of Taiwan (the forerunner of today’s state-owned Bank of Taiwan). In the postwar era, it continued to house bank officials until 1978.

As premier, Sun first lived in a Japanese-era official residence on Section 2 of Ji­nan Road where he had been living since his days as president of the Taiwan Power Company. The widening of Ji­nan Road, however, reduced the size of house’s courtyard, and the tight living quarters had always made it inconvenient to host visitors. President ­Chiang ­Ching-kuo repeatedly urged a reshuffling of official residences, and in 1980 Sun moved into the new compound, which measures more than 2800 square meters. He remained there for 26 years until his death in February 2006.

When Sun moved in, however, he found that nearly half the structure had been damaged by termites. That portion was torn down and replaced with a Western-style structure, which was combined with the undamaged portion of the Japanese-style building, resulting in today’s East-meets-West appearance. Because of its historical and cultural significance, the residence, after Sun’s death, was quickly designated as one of Tai­pei’s historic sites and refurbished.

Cai Yi­jun, director of the Sun Yun-Suan Memorial Museum, enthusiastically explains that the memorial includes both the Western and the Japanese-style structures. The former focuses on Sun’s life as a public servant, the latter his private life. The reception area in the Western-style structure is the only part of the building that retains its original appearance.

In the Western-style exhibition hall, there is a small-scale replica of an obelisk with an inscription by President Chiang Kai-shek that reads “Spread light across the land.” The actual monument, which stands on the boundary between Nan­tou and Hua­lien Counties, commemorates the construction in the early 1950s of high-voltage lines to feed hydroelectric power across the mountains from Eastern Taiwan, under Sun’s leadership as chief engineer at the Taiwan Power Company. But this was far from being Sun’s only accomplishment.

Born in Peng­lai, Shan­dong Province, Sun graduated from the Harbin Institute of Technology. Just after the war, at the beginning of his time at Tai­power, he gathered around him hundreds of specialists and through tireless efforts restored 80% of the nation’s electrical infrastructure, which had been destroyed during the war, in a five-month period—a powerful rebuke to Japanese taunts that Taiwan would return to the “dark ages” within three months.

The passage leading to the Japanese-style residence is adorned with family pictures, including photos of Sun dancing with his wife, Yu Hui-­hsuen, laughing with his kids in the courtyard, and reading with his grandchildren while lying on the floor. Along both walls of the hallway run railings that his son had installed to help Sun learn to walk again after he suffered a stroke and was confined to a wheelchair.

The space displays Sun’s original diary and an installation that allows visitors to flip through a digitized version. It includes a passage by Chiang Ching-kuo that still moves people to tears. “To me, you are more than a brother,” it reads. “Once I found out you had had a stroke, I came to see you 28 times.”

In photos, Sun takes on the stern, determined appearance of “the eternal premier” (a nickname by which he was known), but love letters to his wife show a more delicate side. “My most beloved companion,” he begins with his typical form of address. “People say that love can be as deep as the ocean, but my love for you is deeper even than the deepest parts of the Pacific, the deepest of all oceans.”

With the melodies of Chopin floating through the exhibition hall, one can imagine the charming spectacle of Sun and his wife dancing lightly to the strains of music.

Under the skilled hands of an architect, the old chauffeur’s quarters have been remodeled to serve as a small new exhibition space containing cultural and artistic products. The exterior has been fitted with plate glass that reflects the greenery of the garden. In order not to interfere with the visual integrity of the main building, part of the new exhibition space has been moved underground. It provides a venue for, among other things, lectures, meetings, and cultural activities, such as the regular meetings of the TSMC Literary Salon, co­sponsored by the TSMC Education and Culture Foundation and the United Daily News. By honoring his lofty ideals, the memorial hopes to blend the old and the new, operate as a sustainable enterprise, and introduce the public to the immortal spirit of Sun Yun-suan.    

政經擘遠景 模範永不朽

文‧賴廷恆 圖‧林旻萱 翻譯‧Paul Cavey

走過昔日年代,當時在李國鼎、孫運璿等先賢領導掌舵下,台灣終能「化危機為轉機」,邁入「黃金歲月」、躍居「亞洲四小龍」之首,寫下至今仍為人津津樂道、緬懷不已的「台灣經濟奇蹟」!

歷來作為台灣政治、經濟及文化中心,台北市擁有為數眾多的名人故居,隨著保護古蹟意識抬頭,古蹟活化再利用蔚為風潮,也成為一處處的人文歷史觀光景點,吸引慕名而來的參觀者,到此憑弔歷史名人的生命軌跡、生活拾零。

漫步台北城南,隱於巷弄間的「李國鼎故居」、「孫運璿科技人文紀念館」,讓後人得以風簷展讀、古道照顏,親炙夙昔典範。


國之重鼎  居之簡樸

位於台北市中正區泰安街2巷3號,約興建於1935年(昭和10年)的「李國鼎故居」,原為日據時期總督府交通局遞信部高級文官官舍,戰後改為財政廳長官舍。有「台灣科技教父」之稱的李國鼎,於1972年遷入,至2001年辭世前,長居在此近三十年。

日據時期,台北市以台灣總督府為中心向外輻射,1930年代以前,陸續完成當時屬於「幸町」,現今的仁愛路、徐州路、濟南路及杭州南路等,並於1935至1945年間成為發展迅速的住宅區域,因學校、官舍林立,而被稱為「學校街」或「官舍街」。當年「李國鼎故居」地址即為幸町150-3番地。

歷經抗戰、國共內戰,隨著堪稱「人類史上最大的遷徙事件」──國府遷台,讓許多原本來自大江南北的外省人,至此都成為「台北人」。出生南京市的李國鼎,也是其中之一。獲中英庚款公費留英,在劍橋大學攻讀數學、物理,研究核子物理及低溫超導體,27歲因抗戰爆發而返國,日後來台展開其等同於「台灣經濟發展縮影」的傳奇一生。

抗戰開始後,李國鼎與其妻宋競雄因戰時需求,一共搬過13次家;甚至有過一年內搬家4次的紀錄。1948年來台之初,則先是遷入位於臨沂街巷內的台灣造船公司宿舍,之後才搬進「李國鼎故居」。

「李國鼎故居」為當年建築標準最高等級官舍的「高2種建築」,基地面積約三百坪、建坪則為55坪;故居保存狀況完好,屋內客廳擺飾、書房陳設、臥房乃至庭院花草,悉如生前模樣。院前小徑栽種楊桃樹、桂花、茶花、梅花,11株櫻花樹更因台灣人愛賞櫻而大大有名。

故居建築物主體為木造,內裝則採日洋混和,各房門皆相通,踏上屋內時木地板嘰嘰嘎嘎作響,牆壁、木門連成一氣的「大櫥櫃」,尤其令人印象深刻。門前春聯橫批寫著「主賜平安」,玄關也掛著「基督是我家之主」、基督畫作,讓參觀者感受到李國鼎夫婦的虔誠信仰。

「這是台灣極少數原汁原味的故居!」李國鼎科技發展基金會秘書長萬其超認為,「李國鼎故居」體現出李國鼎生前「物質生活清淡」、「生活有紀律」兩大品格。「餐廳使用的椅子主要用卡榫裝置,坐久了難免會鬆掉,就用繩子綁住」、「家中的浴室和廚房的東西都可以進博物館了!」萬其超以此說明,李國鼎夫婦一生廉潔自持。

至於書房矮櫃上擺放數枚象棋、核桃,經萬其超的解說,讓人恍然大悟,這可是李國鼎發明的原始「計步器」,使用方法為健步走一趟放枚象棋、累進十趟則擺上個核桃。萬其超指出,由類似的生活細節,不難窺見李國鼎的生活何其有紀律、章法。

萬其超表示,基金會藉由每月在此舉辦一至兩次的演講活動,吸引來此的出席者、民眾「順便」參觀故居,迄今推廣效果相當成功;今年則可望在屋頂種植一些花草蔬果,既可節省一些費用,又能符合綠色環保的時代潮流,反映出李國鼎畢生引領台灣、走在時代尖端的「科技人」形象。

故居牆上的月曆頁面,仍堅守駐留在李國鼎去世的2001年;昔日故居旁的傭人房,則已改建為展示館。台達集團創辦人暨榮譽董事長,也是李國鼎科技發展基金會現任董事長鄭崇華,當年出資拍攝李國鼎生前的紀錄片《競走財經版圖──李國鼎》在館內播放,並輔以文字表列出李國鼎的生平大事紀及言行政績。

生前被譽為「國之重鼎」,台大前校長孫震曾如此形容李國鼎的一生:「因為有李國鼎,台灣才有加工出口區、創投、資訊產業、科學園區、光電產業……。當一樁樁事業陸續開花結果,國家經濟成長,人民所得增加、生活富裕,他卻逐漸衰老,但仍然住在一棟陳舊的日式宿舍裡,繼續為國事操勞。」

對此,萬其超則強調,由故居即可充分體認,李國鼎夫婦為虔誠的基督徒,「精神生活富裕」;外人眼中夫婦倆清廉簡單的物質生活,「對他們而言並不辛苦!」

創造經濟奇蹟  永遠的行政院長

早年台灣所謂的「財經三傑」,尹仲容1963年早逝,嚴家淦1986年因病隱退,長期影響、貢獻最大者當屬李國鼎;加上後繼有孫運璿、趙耀東等接棒,才讓台灣得以由農業社會轉型為工業社會,再從傳統工業升級至高科技領域。

李國鼎、孫運璿同為憂國憂民、謙沖清廉的國士,兩人生前均未置產,在公家宿舍長居二、三十載鞠躬盡瘁。

猶記1984年、時任行政院長的孫運璿不幸因腦中風住院。孫運璿帶領台灣創造經濟奇蹟,一生卻無任何房產。昔日報章曾引述其親人的說法,包括本身為台灣大學食品科技所名譽教授、孫運璿的長女孫璐西基於當時的時空背景,認為父親只想全力拚工作,從未想過得替自己留後路。但與孫運璿感情甚篤的表妹劉冰琦則認為只對了一半,「沒考慮買房子,是因為他沒有錢買。」

自2014年10月30日開放的「孫運璿科技‧人文紀念館」,位於台北市中正區重慶南路2段6巷內、鄰近植物園側門,為孫運璿任行政院長時的宅邸。始建於1904至1905年間,原為台灣銀行株式會社(台灣銀行前身)的高級官舍,戰後則由台灣銀行接收作為宿舍及官舍,包括曾任省府財政廳長的任顯群、前總統府資政黃少谷於外交部長任內,均曾在此居住;並曾出借成為前國防會議秘書長顧祝同的官邸,直到1978年才收回。

時任行政院長的孫運璿,自台電總經理任內一直居住於濟南路二段日式官舍。配合濟南路拓寬,庭院驟縮且住所太小,不適宜接見外賓,總統蔣經國曾多次指示其更換官舍,孫運璿才於1980年底遷入這幢佔地八百多坪的宅邸,至2006年2月辭世為止,在此渡過26年光陰。

孫運璿遷入時,因房舍建物近半已被白蟻蛀空,只得拆除毀損部分,並重建一棟現代化西式建築洋館,與剩餘日式和館整合為一,形成現今「和洋共存」的樣貌。由於深具歷史、文化、人文等保存意義,孫運璿過世後,隨即通過審查並公告指定為市定古蹟,予以修復。

「孫運璿科技‧人文紀念館」館長蔡怡君娓娓道來,紀念館古蹟包含西式洋館及日式和館(日式館邸)兩部分,前者聚焦孫運璿生前致力公務、後者則以家居私生活為主。洋館部分的會客室,為全館唯一原貌呈現的場域空間。

洋館展場內由總統蔣中正題字的「光被八表」碑仿品,映照著籍貫山東省蓬萊縣,畢業於哈爾濱工業大學的孫運璿,早年任職台電期間,戰後找來數百位專科學生,夜以繼日、不眠不休地搶修,全省遭戰爭破壞的電力設施,五個月內讓全省電力恢復正常供應達到八成,打破日本人「三個月後,台灣將一片黑暗」的嘲諷預言。

通往和館的走廊,擺滿孫運璿生前的家庭照片,包括與夫人俞蕙萱共舞、和兒子在庭院歡笑留影,以及陪伴孫子趴在地上看故事書;兩側牆上的扶手出自兒子所設置,中風後以輪椅代步的孫運璿,曾在此一次次練習走路。

和館展場除孫運璿日記原件,也設有可供滑閱翻頁的電子書,包括記述蔣經國「對余個人,情逾手足,聞余中風,先後探望病體28次之多」的段落,至今讀來仍讓人為之扼腕掬淚。而收藏孫運璿生前穿戴服飾的衣櫥鞋櫃裡,唯一外觀感覺較新、內襯絨毛的休閒鞋,據蔡怡君介紹,只因出自蔣經國所贈,孫運璿「一直捨不得穿」。

攝影鏡頭下、電視螢光幕上有著「永遠的行政院長」的嚴謹、鐵漢形象,孫運璿親筆寫給夫人的情書,卻總以柔情的「我最親愛的老伴」開頭,且留下「人云『情深似海』,其實世上最深的太平洋海溝,也沒有我愛你之深」等字句。隨著館內播放、耳畔流瀉的蕭邦鋼琴旋律,此刻眼前恍若浮現,當年晚餐過後,搬開家具、打開留聲機,在地板上灑些白粉,孫運璿夫婦隨樂曲翩然起舞、深情對望的景象。

走過退出聯合國、與美斷交、兩次能源危機等關鍵年代,行政院長任內十大建設全部完工、科學園區正式開幕啟用;被尊為「工研院之父」,1974年孫運璿與行政院秘書長費驊、旅美學人RCA研究室主任潘文淵,在林森北路小欣欣豆漿店的一頓早餐,更決定了台灣日後將邁向積體電路發展的政策。

蔡怡君特別提到,原先老舊的司機房經過建築師設計,改建為以藝文、文創商品空間為主的小型新館,外觀採大塊面玻璃,映照整個庭園的綠蔭花叢;為避免妨礙主建物視覺,新館更將部分空間移到地下,可提供講堂課程、會議、藝文活動等用途,諸如台積電文教基金會、《聯合報》副刊合辦的「台積電文學沙龍」即定期在此舉辦。追仰故人崇高行誼,紀念館盼能結合新舊、永續經營,向大眾推廣、發揚孫運璿的不朽精神。                                                                  

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