流転の一生に安住の地
自分は学校に入ったことがないと自嘲する孔徳成だが、台湾に移ってから韓国の成均館大学、日本の麗澤大学と台湾大学から名誉博士号を贈られた。その一生は内外の大家や碩学に教えを受けながら、先祖の教えを守り、家学である儒学研究に捧げたものであった。
孔家にあった時は、王毓華、荘陔蘭、呉伯蕭、詹澄秋、歌楽山の寓居では呂今山、丁惟汾などの師から教えを受け、経学、文字学、音韻学、青銅器、書、英語、古琴などの学問の基礎を固めた。1948年にはアメリカに留学し、西洋政治思想を受け入れ、民主主義の価値観を評価した。その間、傅斯年からも教えを受け、その素養や人格の高さに深く傾倒した。
教育に携わる生涯において、自費で「儀礼、士昏礼」のモノクロ映画を制作した。その当時、役者を担当した弟子たちも、文物展を訪れて、当時の思い出を振り返った。
孔徳成の書は、楷書、行書、草書、篆書、金石文と、五書に優れており、数多くの書を残し、それが記念展の重要な展示品となっている。杯を執っては豪快で、台湾大学の同僚だった台静農、屈万里、張敬、鄭塞騫と共に五虎将と呼ばれ、友情を深めた。台静農は「酒覇」の印を作って送り、酒の席での書は、豪放な趣きがある。
聖人の伝承者として、孔徳成は幼いころから自己を律し、終生誠意を持ち、正々堂々と身を修め、家を維持することに心を尽くした。展示されている書「忠信篤敬」は、まさに子孫に与えた箴言である。
時代の荒波に翻弄されながら、孔徳成は常に儒者としてその身を律していた。国民大会代表から考試院の院長、総統府の顧問、宗教者外交などの要職に招かれたときも、儒学の伝統により身を処してきた。
台湾に移った当初、日本、韓国から欧米まで訪問して、孔子を祀る典礼を主宰してきた。さらに1984年には当時の教皇ヨハネ‧パウロ二世と対談し、東西の偉人の世紀の出会いと言われた。俗世にありながら、端然と運命を受け入れ、職を全うしてきた。その悠揚自在な佇まいに、他に求めず自立した精神をうかがわせる。
孔徳成は文物の保護にも力を尽くした。抗日戦争が起こると、山東図書館の多くの古書を孔家で預かり、8年の戦争の間、これらの希少な善本と文物を無事に守ったのである。
1949年には故宮博物院、南京中央図書館、南京中央博物院の文物が、政府と共に台湾に移ってきた。1955年に、これらの文物を新たに建設された霧峰の北溝倉庫に集中保管し、曲阜の孔家の文物も合せて保管された。その後、国立故宮中央博物院連合管理処に改組され、翌年に孔徳成が主任委員に就任した。
勤勉に職責を果たし、文物の由来や製造工程などを分類し記述した。その間に、文物のアメリカ展示を行い、大きな評判を呼んだ。そんな縁があり、アメリカの賛助を得て、台北市士林外双渓の故宮博物院の建設となったのである。
王献唐の作品「猗蘭別墅著書図」には、臺静農、張敬、戴君仁、屈万里、李炳南、趙阿南ら名家の詩文が書き込まれている。