花蓮の瑞穂駅
1914年の完成時の名は「水尾乗降場」、1917年に瑞穂駅と改名され、1968年にはコンクリート建築に建て替えられた。モダンな建築スタイルで、流れるようなラインが古称「水尾」のイメージにマッチする。
瑞穂と言えば温泉と牧場だが、ほかにも日本統治時代には50~80軒の「煙楼」(タバコ乾燥小屋)があった。だが日本人が去り、産業にも変化が訪れ、煙楼は使われなくなっていった。ところが、郷土史家の黄家栄氏が神社に興味を抱いたことがきっかけで歴史が掘り起こされていく。
「台湾にはこんなに多くの神社があるのに、当時は教科書にも書かれておらず、注目する人もいませんでした。それで調べようと思ったのです」やがて黄家栄氏は博士号も取得し、花蓮のすみずみまで知り尽くした。
日本統治時代、花蓮には吉野、豊田、林田の三大官営移民村があった。いずれも1917年までに作られており、1933年完成の瑞穂移民村には、官営村のエリートや、後に自ら移住してきた人々が集まった。黄家栄氏は「当時、瑞穂に住んでいたのはエリート中のエリートでした」と笑う。
瑞穂温泉は日本の有馬温泉と同様に酸化鉄を豊富に含む「金の湯」だが、近隣の万栄郷にある紅葉温泉は無色透明だ。かつて日本人医師がこの地を視察に訪れ、サルが湯につかっているのを見て、この地に温泉場を作った。当初は軍人や警察官などの療養に使われ、後に公衆浴場となった。
黄家栄氏は虎頭山歩道にも案内してくれた。雑草の生い茂るこのルートは、かつて神社参拝路だったという。石段を少し上ると右手に平らな土地が現れた。すると黄家栄氏は一枚の白黒写真を取り出した。かつて日本人が紀元2600年を祝うため、ここで相撲大会を開いた時の写真だ。土俵の周りの石段が観衆で埋め尽くされている。
「この大会には台湾人も参加できて、80歳のお年寄りが当時を覚えていました。弟と二人で出場し、日本人を打ち負かして2位になった。賞品はモチ2個だったと」近年、ある学者がフィールドワークを行うと、地下から紀元節祝典の酒瓶も出てきたと、黄家栄氏は興奮気味に語った。
下山途中、彼は瑞穂の名の由来を話してくれた。台湾の地名を改称する際、日本人はよく音が近い地名を選んだが、「豊葦原の瑞穂の国」という言葉もあって、水尾を瑞穂に改めたのだと。
虎頭山歩道の手前にある瑞祥村には、多くの煙楼が残されている。その中に1軒、民家に隣接して建つ煙楼がある。建物の傷みは目立つものの、瓦屋根に堂々たる越屋根を載せた立派な建物だ。日本統治時代、煙楼を持つのは裕福な家だった。この煙楼の主は、台湾東部の教育家である楊守全氏の父、楊朝枝だ。
2017年頃には瑞穂のタバコは全面生産停止、煙楼も使われなくなった。だが幸い、楊守全氏の子供たちが保存に努め、芸術家である彼らはそこをアートスペースにして楊守全氏の生前の資料や自分の陶芸品の展示をする。時には自分たちで栽培したコーヒー豆を焙煎したりもしている。
コーヒーの木はちょうど楊家の煙楼のかたわらに植えられていた。黄家栄氏が1粒もぎ取って口に入れ、説明する。「西洋文化を追い求めた日本人はコーヒーを飲むようになりました。総督府は台湾駐留の日本軍人のために瑞穂と舞鶴でコーヒーを栽培するようになり、最大の農場で約500ヘクタールありました」ただ日本人が去った後、台湾人にはコーヒーを飲む習慣がなく、パイナップルやキャッサバ畑に変わっていった。
瑞祥村の碁盤目状に走る道を歩くと、静かで犬の声すら聞こえず、草花がこんもりと生い茂る塀の向こうに古い建物がたたずむ風景だけがある。「観光客はここまで来ないでしょう」と問うと、黄家栄氏は笑って答えた。「ここまでやって来るのは歴史を知りたいと思う人だけですね」
次に鉄道の旅をする際には、慌ただしく列車に乗ってしまわないで、近くの通りにも足を延ばしてみよう。思いがけない物語があなたを待っているかもしれない。
旧関山駅は、関山と池上、鹿野一帯の貨物の中継地点だった。貨物を運ぶために、最盛期には従業員16人が交替で24時間勤務していた。
陳家千は自分で育てた有機米を自ら販売している。顧客から注文が入ってから精米することで、新鮮な米を味わってもらうという。
瑞穂の虎頭山歩道で、黄家栄は日本統治時代の写真を取り出し、かつて神社のあった場所に残された遺跡と照らし合わせる。
瑞穂にある楊家の煙楼の瓦屋根には越屋根があり、堂々としている。
楊守全の家は日本統治時代の建築構造を残しており、そこに現在の家族の芸術作品を展示している。
瑞祥村を碁盤の目に通る道沿いには、日本統治時代の煙楼の跡地が多く残っている。人通りはなく静かだが、緑豊かな地域だ。
日本統治時代からある多くの駅舎は、西洋に留学した日本人建築家が設計したため、建築物として「和洋折衷」の特色を具えています。ですから日本時代の建物を「日本風建築」と括るべきではありません。