同郷を助けることが生きがいに
「ブライダルサロンは最初は2階にあり、1階は服飾店、3階が写真スタジオ、4階がレストランでした。それが、レストランが繁盛し、お客さんから4階まで上るのは大変だと言われ、1階に移したのです」と黎さんは言う。ベトナム生まれの彼女は1998年に桃園に来て、電子工場で品質検査の仕事をしていた。その時に同じ会社の技術者と出会い、家庭を持つことになった。2人の子供が生まれ、ベトナムの実家で育ててもらっていたが、上の子が学校に入る年齢になり、子供たちを台湾へ連れ帰った。「社長は良い人で、在宅のパートで働かせてくれ、いつでも復職していいと言ってくれました」と言う。
ところが数年後、桃園の工場は次々と倒産し、彼女も仕事を失った。新聞の求人欄で仕事を探すと、移住労働者にサービスを提供する教会の求人があった。給料は多くないが、同胞のためになると思い、やってみることにした。「その教会は政府移民署から委託された移住労働者を引き受けていて、よく警察に呼ばれて外国人労働者の通訳を務めました。台湾の法律を知らないために法を犯してしまった人や、雇い主の搾取に耐えかねて逃げ出した人など、それぞれに苦労があることを知り、感じるところがありました」と言う。彼女はこの仕事を5年続けるうちに、たくさんのベトナム人女性と知り合った。多くの移住労働者が不公平な扱いを受けていることを知り、同胞のために何かしたいと思うようになった。
その頃、「桃園県ベトナム婦女協進会」の理事長改選が行なわれ、推挙された彼女が引き受けることになった。さらに当時の桃園県(2014年以降は桃園市に昇格)婦女権益促進委員会の委員として招かれ、協力してくれる議員とも出会えた。こうして仕事は増えていき、自分の時間はなくなり、自費でいろいろまかなうことも増えた。教会の2万5000元の給与では足りなくなり、商売を始めたいと思うようになった。
「いろいろ考えた末、飲食店ならできると思いました。同胞が集まる場にもなりますし」と言う。そこで黎さんは、移住労働者が多い内壢に店を開き、その後、自宅に近い延平路に移転した。すぐに人気レストランになったが、面倒なことも次々と起きた。鬱憤を晴らす場のない移住労働者が酒に酔って店で問題を起こし、しばしば警察が訪ねてくるようになったのである。「以前、私は警察に通訳として招かれて手厚い待遇を受けましたが、店を始めてからは、容疑者として訊問されることさえあったのです」と言う。彼女はこのことで店を閉めることにした。
だが、夫の収入だけで一家を養うのは難く、彼女は別の商売を始めることにした。「ベトナム人女性の多くがネイルアートの店を開いているのを見て、以前ベトナムでウェディングサロンを開いたことがあることを思い出し、やってみようと思ったのです」と言う。レストランを開いていた時にも、よく店で歌唱コンクールや披露宴を開いていた。彼女はまた、新住民の習い事や子供たちのベトナム語などの教室を開ける場も持ちたいと思っていた。そこで、すぐに建物を一棟借りて新たな事業に乗り出した。
店内にはベトナムの日用品が多数飾られている。小さな博物館を作って人々にベトナム文化を知ってもらいたいと言う。