台中の高速鉄道駅から車で10分ほど、住宅街にある洪易のアトリエの屋上には、高さ2メートルもあるクモのような派手な色彩の作品が立ち、遠くからでも目を引く。
動物をテーマにした、童心溢れる色彩豊かな洪易の作品は、人々の注目を集めてきた。今年4月には、コンテナ4個に40点近くの大型作品を携えてサンフランシスコで個展を開催した。サンフランシスコのシティホールで個展を開いた最初の台湾人芸術家となった。2013年の日本の彫刻の森美術館での個展に続き、これまで海外で開催した最大規模の個展である。
洪易が芸術の道に足を踏み入れて10年余り経って、その作品は台湾の各地で目にするようになった。2009年には仁愛路ロータリーの富邦企業ビル外壁の「微笑猫」、2014年の桃園ランドマーク芸術祭では「走る兎」と「大旺犬」「愛心カタツムリ」を出展、そして今年初めには新光三越百貨店で「羊年芸術彫刻展」にも出展した。
紆余曲折の芸術への道
洪易は明道高校美術工芸科を卒業したものの、他のアーティストと比べると、洪易の芸術への道は紆余曲折を辿ってきた。
台中の烏日に育った彼にとって、絵筆は子供時代の玩具に過ぎず、時々色を塗って遊ぶだけだった。それでも同級生に比べて才能があったのか、小学校時代は美術専攻クラスに入り、壁新聞を担当していた。子供時代の経験のためか、明道高校美術工芸科に進学し、芸術への道を考えたこともある。しかし、結局は芸術への夢を諦めて就職し、ウォータベッドのセールスやインテリアデザイン、建築の現場監督などを転々とした。
1990年代にシェイク・ミルクティーが大流行した時に、洪易はミルクティー・ハウスに商売替えして、毎年1店舗ずつ出店し、最盛期には9店舗のオーナーとなっていた。ますます芸術から遠ざかっていったようだが、店のインテリアは、すべて洪易が創作意欲を満たすための絵画だった。色彩に満ちた絵画は熱に溢れていたと洪易は言う。エネルギーに満ちた作品群は、実は台湾の芸術環境に対する無言の抗議だったのである。
台湾の芸術界は正統な技法とアカデミックな訓練を重視し、芸術や美学の評価はそれを原則としていたと洪易は話す。学生時代の作品は、伝統的な技法を外していたため点数が低く、アカデミックな訓練を重んじる時代に、洪易の作品は評価されなかった。数人の友人とギャラリーが行なう新鋭芸術家選抜に参加したこともあるが、大学での正統な美術教育を受けていないために選抜されなかった。
これに不満を感じた洪易は、二人の芸術仲間とともに100万台湾元を集めて、台中国立美術館の傍らに「Ⅹ世代台湾私立美術館」を開設し、自身と仲間の作品を展示した。9か月の間に3回の展覧会を開いたが、終わってみると資金を使い果していた。
芸術への夢は叶わず、10年間経営したティー・ハウスも結局は失敗した。「ビジネスの失敗で、すべて失いました」と、人生の谷底を経験した彼は、再び創作の道へと戻り、人生をやり直そうとしたのである。
創作への復帰、人生のやり直し
2000年に、文化建設委員会(現在の文化部)の主導により、台中駅の後ろの鉄道芸術ビレッジ20号倉庫で、アーティスト・イン・レジデンスの募集をしていた。友人の勧めでこれに応募してみると、幸運にも入選したのである。この人生の転機について「芸術こそ私の本来の職業と、天の神が言ってくれたのでしょう」と淡々と語る。
初めてのアーティストという身分での生活にはなかなか慣れなかったと言う。かつてのティー・ハウスでは、その作品の大胆で前衛的な創作スタイルが変った人たちを呼び寄せ、若いクリエイターや新しい思想の若者が店の常連となっていた。彼らとの雑談を通じ、創作に没頭し世の中と隔絶する芸術家の生活スタイルを彼も知ってはいた。しかし、本物の芸術家になってみると、洪易は適応不良を起こし、学歴コンプレックスに悩まされた。「学歴は芸術に関係ないといっても、同じ時期にビレッジに入居した芸術家には修士や博士が何人もいてプレッシャーでした」と話す。
そういったコンプレックスや不安は、台中のあるコレクターが作品を購入したいと訪れたことから、ようやく快方に向かった。それは作品を評価されたことだからと、洪易は言う。評価され始めたとはいえ、ビレッジ時代は3年で2点しか売れず、収入が不安定で生活は厳しかった。創作を続けながら、洪易は何とか知名度を上げるチャンスをつかみ取るために、積極的に自分を売り込もうと考えるようになった
立体造形で自分のスタイルを確立
2004年にビレッジの契約が切れると、朴子駅に近い倉庫を借りてアトリエにし、創作難度が高くコストの掛かる立体造形に取り組み始めた。当時の美術界は開放的になり、既定の形式やテーマを打ち破る新たな手法が生まれていた。洪易も平面創作から、より難易度の高い立体造形にチャレンジすることにした。
平面創作であればコストは数千元で済むが、立体となると素材は異なり、工場に型の製作を依頼するので費用がかさむが、誰でもこれを負担できるわけではない。情熱に任せて立体造形のジャンルを選んだ洪易は、まず安上りの粘土から始め、ステンレスやスチールを試していった。
2004年以降、洪易は「一杯の祝福」や「大猫」など数多くの公共スペース向けの立体造形作品を製作し、企業との提携を開始した。この時期の作品は、すでに初期の生硬さを脱し、独自のスタイルを確立している。
洪易に多くの立体造形を依頼してきた富邦芸術基金会は、洪易の最初の企業顧客である。同基金会は、当初はほかのビレッジアーティストに依頼したのだが、断られたので洪易に回ってきたという。その後、政府部門や企業との提携でパブリックアートが展示されるようになり、好評を得て知名度は上がっていった。
2013年には、日本の彫刻の森美術館の招待を受けて、数十点の作品を日本に持ち込み「アニマルパーティ」展覧会を開催した。18年前に朱銘が招待されて以来、ここで展覧会を開いた二人目の台湾人芸術家となったが、要求の高い日本の美術館からの招待ということで、洪易にとって大きな励みとなった。
20代の10年で創作エネルギーを蓄積
紆余曲折を経た洪易の芸術への道だが、芸術への情熱は変わることはなかった。30歳になって、芸術への道を決意したのだが、その前の10年間に及ぶ社会的経験がなかったら、創作エネルギーは湧かなかったと言うのである。
初期の作品から今日の大型作品までを見ると、複雑に重複する線で構成された表現が一貫して見られ、明確なスタイルとなっている。こういった創作スタイルは、社会経験10年で培った人間や社会への認識に対する芸術表現なのだと言う。
仕事や商売では様々な人とのやり取りがあり、多年の社会経験が独特の観察力を養った。その作品の複雑に絡むラインは「人間性も社会も複雑で一人一人が小宇宙である」というコンセプトを表現している。
その一方で、東洋の複雑で繊細な文化の特質を伝えたいと考えている。西洋では長い発展の結果、モダニズムの洗練されたシンプルな段階に至っているが、東洋では長幼の序や人間関係の礼儀を重んじ、現在でも複雑な一面を残しているのである。
その作品のコントラスト鮮やかな色彩処理は、身の回りの配色から取ったものである。廟や寺の色彩に刺激された作品の配色も多く、身の回りの生活の細部からインスピレーションを得たものが多いと言う。そのため今もスケッチブックを手放さず、思いついた時にすぐに描いている。
これまで既成の枠から飛び出してきた洪易は、その容貌から言っても、皆が思い浮かべる芸術家の印象とは大分異なっている。彼は笑いながら、ワイルドなイメージは、内心の感受性豊かでロマンチックな面を保護するシールドと言う。
国際的に知名度を上げつつある彼は、一つの夢を抱いている。暇を見ては台湾各地を見て回り、洪易パークにふさわしい場所を探している。長年作り続けた作品を、まとめて一般の人のために展示したいという。「このパークがあれば、作品は各地に散らばらずにまとめて鑑賞できるでしょう」と話す。そのアトリエには、これまでの創作の軌跡を描いた絵が掛けられている。一方、この洪易パークは、絵筆を使わずに、その心に未来の華やかな芸術の園を描いているのであろう。
洪易はルールにこだわらない独自のスタイルで、カラフルで童心に満ちた作品を生み出す。(林格立撮影)
18年前の朱銘に続き、洪易は日本の「彫刻の森美術館」に招かれて個展を開いた。ここで個展を開いた台湾人は2人目である。
洪易は作品を通して「人々に楽しさを感じてもらいたい」と考えている。
洪易の作品は台湾のさまざまな場所で見られ、鮮やかで可愛らしい作品は人々の目を引く。写真は新光三越百貨店で開かれたテーマ展「馬到成功」。