雲林の「良き隣人」 ——若瑟病院

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2017 / 4月

文・黃淑姿 写真・林旻萱 翻訳・山口 雪菜


雲林県のカトリック若瑟病院(聖ヨセフ病院)は1955年に開設してから今日まで、11の医療奉仕賞を受賞し、多数の雲林県ナンバーワンを実現してきた。愛の名の下、雲林県の「良き隣人」として60年にわたって地元の人々に寄り添ってきたのである。その「若瑟病院の三つの宝」と呼ばれるアントアヌ・ピエロ神父、チャプレン(施設所属の聖職者)のゴデリーヴ・フランセスさん、そしてマルグリット・ビリエ医師の3人の外国人が生涯をこの病院に捧げてきた。現在では雲林県にも次々と大型病院ができて若٧ن病院の段階的任務は終わり、3名も高齢となったが、その精神をいかに引き継いで病院を転換させていくかが課題となっている。


1950年代、戦乱を経たばかりの台湾では医療制度も整っておらず、衛生条件も悪かった。そこでカトリック教会は台湾各地に教会と病院を設け、海外から医師を招いて設備を導入し、台湾で医療の行き届かない部分を埋めていった。

雲林県の医療の最先端

そうした中で1955年に設立された若瑟病院(聖ヨセフ病院)は、今では雲林県に深く根を張っている。かつては交通が不便だったため、治療が手遅れになることもあり、さまざまな病気の死亡率も高かった。地域には日本留学経験のある医師もいたが、医療費は非常に高く、一般市民に負担できる額ではなかった。そこで、カトリック嘉義教区の牛会卿司教は、一般の人々が家の近くで診療を受けられるよう、虎尾鎮に「営利を目的としない病院」を設立したいと考えたのである。

1953年、台湾に若瑟病院を建設するという任務を負ったピエロ神父は、故郷オランダから飛行機でローマへ出て、ミラノに近いジェノア港から貨物船に乗り、翌年に台湾に到着。牛司教とともに病院開設に取り組むこととなった。

195512月に病院は落成した。牛司教は、医療を専門とし中国語もできるベルギー出身のジョルジュ・マシン神父を初代院長に招いた。最初は医師2名、看護師2名、アシスタントの修道女10名からスタートした。マシン神父は経営管理とレントゲン検査を、ピエロ神父は管理補佐と薬局を担当した。「病院全体が大家族のようで、誰もがマシン神父とピエロ神父を『おじさん』と呼んでいました」と話すのは産婦人科兼家庭医の蔡孟宏医師だ。「マシン神父は包容と愛で人々を感動させ、だからこそ神父のために何かしたいと思うのです」と言う。

現在、若瑟病院のスタッフは700人余り、ベッド数は361という総合病院・地域教育病院の規模に達している。1985年には雲林初の小児科集中治療室を設け、1998年には雲林初の小児科救急業務を開始、2006年には雲林初のホスピスを設立した。

ピエロ神父——嘉義教区の贈り物

1953年、オランダ人のピエロ神父は布教の物語に感動して自ら志願して台湾へと向かい、翌年台湾に到着すると、若瑟病院の設立準備に全力を投じた。「私たちの病院では全人的医療を行ないます。身体だけでなく心や精神にも関心を寄せるというものです」とピエロ神父は話す。忙しい中、毎日必ず病室を訪れて患者のために祈りをささげる。従業員とその家族にも心を寄せ、60年来、生死と向き合う無数の家族に寄り添ってきた。

数年前、若瑟病院の会計主任だった呉俊男に健康診断でガンが見つかり、家族が不安に陥っていた時も、ピエロ神父は暖かく寄り添い、呉俊男も臨終の際には「主の懐に抱かれて」安らかに眠った。その夫人で企画室に勤務する張美蓉は「主人の入院中、ピエロ神父も病気で別の病室に入院していたのですが、それでも毎日車椅子で見舞いに来てくださり、前向きに向き合うよう支えてくださいました」と言う。呉俊男が亡くなった時、ピエロ神父は病を押して自らミサを執り行った。「楽しい時には皆と分かち合い、苦しい時、悲しい時は一緒にいてくださいます」と、張美蓉はこみ上げる涙を抑えながら話す。

ピエロ神父は1956年から69年までの間に幾度も米国に渡って募金活動を行なった。募金で得られた資金の大部分は病院の拡張に用いられ、さらに嘉義教区に美しい贈り物をもたらした。1962年に聖奥徳堂(聖アウグスチン教会)が完成したのである。ピエロ神父は、一目見たら誰もが足を止めたくなるような教会をと考え、宗教芸術家のフランシスコ・バルボア氏に設計を依頼し、「祈りの手」をイメージにした斜め屋根の印象的な教会を建てた。取材で訪れた日、94歳のピエロ神父も同行し、教会のあれこれを説明してくれた。聖奥徳堂と同様、ピエロ神父も主が嘉義に与えた美しい贈り物なのである。

フランセンス・チャプレン——生命の美を

ベルギー出身のチャプレン(施設所属の聖職者)であるゴデリーヴ・フランセンスさんは1967年、28歳の時に台湾の若瑟病院で助産看護師として働き始めた。

197080年代は台湾の出生率のピークの時期で、フランセンス・チャプレンは多くの赤ん坊を取り上げた。最も多い時、若瑟病院では月に400人の新生児を取り上げ、倉庫のベビーベッドを出しても足りず、フランセンスさんのアイディアで引き出しをベッド代わりにしたこともあるという。当時は早産児のための保育器は高価なため少なく、彼女は保育器を改造して同時に4人の子供が入れるようにした。

高齢になっても休もうとしない彼女は、今はチャプレンとして病室の患者を見舞っている。人の苦しみや戸惑いを深く理解する彼女は「人として暮らしていれば困難はつきものですが、美しいこともたくさんあります」と言う。

彼女は「美しい」という形容詞を好んで使う。「ある時、母親が女手一つで育てた娘さんがガンで亡くなりました。その母親は、娘さんの身体を清めてお棺に納めながら、かつて妻と子を捨てて家を出て行き、娘の訃報を聞いてようやく駆け付けてきた先夫に腹を立て、娘に指一本触れさせませんでした」その父親は部屋の隅に身を寄せて手を出そうとしなかった。最後に、娘に帽子を被せてあげた母親は、ついに心を開き、娘の父親に最後の別れをさせてあげた。「美しいじゃないですか」とフランセンスさんは言う。

数えきれないほどの誕生と別れを見てきて、生命の偉大さが、確執や苦痛を小さなものにすると感じている。だからこそ、フランセンス・チャプレンは美しい物事を大切にする。彼女は私たちを病院の外へ連れ出し、虎尾中正路の市場へ連れて行ってくれた。「いいでしょう。70代になって仕事中に表へ出て市場に来られるなんて、思ってもいませんでした」と笑うのである。

ビリエ医師——得たものの方が大きい

かつて貧しかった台湾では、一人の医師を育成するのも容易なことではなかった。若瑟病院の設立当初も医師不足が深刻で、マシン神父は教会を通して外国から医師を招くしかなかった。台湾の第12回医療貢献賞に輝いたマルグリット・ビリエ医師も、こうした働きかけを通して台湾へ来ることとなった。

「マシン神父は5年おきにベルギーに帰国する際に私を訪ねてくださいました。当時、私はまだ学生で卒業後は小児科の訓練を受け、また中国語を学ぶ必要もありました。神父は5年も待ってくださったのです」と言う。1980年、ビリエ医師が台湾に来ると、間もなく小児科が設けられ、小児科の集中治療室もでき、専門を活かして多くの子供を救うことができた。

「彼女は台湾で唯一、子供の服を脱がして全身を診察する医師です」と宋維村は言う。これはベルギーの小児科の特徴である。子供は大人と違い、症状をうまく説明することができないため、診察には全身を診ることが必要という考え方なのである。

院長助手の蔡玉純によると、ビリエ医師は医療の質を最重要視しており、死亡率の高い早産児もここでは行き届いたケアが受けられる。例えば、ミルクも一度に10㏄ずつ増やすのではなく、1㏄、2㏄と増やすことで、壊死性腸炎の併発を抑えることができる。

ビリエ医師は自分の奉仕は特別なことではないと語る。「外国から来た私たちは立派だと言われますが、ここで働く看護師さんの方が立派です。病院で人の子供を世話し、家に帰れば自分の子供や家族の世話をするのですから。自ら進んで夜勤に就く看護師さんもいます。彼女は2人の子供がいますが、夜間に働くのは翌日家で病気のお姑さんを世話するためなのです。偉大なことではないですか」と。

「医者も看護師も、苦労より得るものの方が多いのです」とビリエ医師は言う。最も印象深かったのは、筋萎縮症にかかった聡明で明るい子供だ。この病気は遺伝子の関係で全身の筋肉に力が入らなくなり、最後は呼吸や心臓の筋肉にも影響して呼吸ができなくなってしまうというものだ。その症状が悪化したのでビリエ医師が診に行くと「その子は私に笑顔を向けてくれたのです。見舞いに来た先生や友達にも笑いかけたそうです。数日後、その子は亡くなりました。この子は、いかに前向きに生きるかを知っていて、苦しみの中で笑顔を見せてくれました。この子が私に与えてくれたものは、私が与えたものよりずっと多いのです」と語る。

健康と希望

「信仰の力だけを頼りに、彼らはまったく縁のない見知らぬ土地へやってきて、全力で奉仕してくださるのですから、本当に頭が下がります」と宋維村は言う。

ただ、現代医療はしだいに「仁術」から「算術」へと変わりつつあり、病院も業績が求められるようになった。こうした新たな経営モデルを導入しつつ、いかにして教会の病院としての精神を維持していくかは大きな課題である。また、雲林県も医療の戦国時代に入り、不足している医療を補うという段階的任務も終わった。若٧ن病院の「社会が必要としているが、誰もやっていないことを行なう」という精神を貫くには、どうすればいいのだろうか。

「かつてヨーロッパから渡って来て奉仕してくださった彼らも今は高齢です。私たち台湾人がその任務を引き継ぎ、若٧ن病院の使命を担い続けられないでしょうか」と宋維村は言う。世の中には助けを求めている弱者がいる。「例えば、私たちの医療技術と奉仕の精神を、アフリカや南米など必要としている場所へ届け、より多くの人に奉仕することも可能なはずです」ピエロ神父やフランセンスさん、ビリエ医師は、人種や国境や信仰を越えて異郷に一生を捧げ、人々の自立を助けてきた。そうして助けられた人々が、健康と希望の輪をさらに広げ、国境を越えて愛を届けられるのではないだろうか。

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投身醫療 樂當近人—若瑟醫院

文‧黃淑姿 圖‧林旻萱 翻譯‧Robert Green

雲林天主教若瑟醫院自1955年落成至今,獲得11座醫療奉獻獎及雲林縣數個「醫療第一」。以愛之名,守護在地人健康六十年,當雲林人的近人(即基督教聖經中的鄰人)。被暱稱為「若瑟三寶」的畢耀遠神父、方秀仁關懷師與葉秀珍醫師三位外籍資深員工,將一輩子奉獻給若瑟醫院。在雲林陸續成立大型醫療院所的今日,若瑟醫院完成階段性任務,若瑟三寶也已步入老年,如何接引他們當初點燃的火炬,延續全人醫療之光?既是醫院的轉型挑戰,也是健康與希望的薪傳。

 


 

自1950年代以降,先進國家逐漸視健康照護為普世人權,陸續結合社會保險、社會救助和國民健康系統,建立多元健康照護制度,確保醫療的普及化和就醫可近性。但台灣剛歷經戰亂,醫療體系有待建立,衛生條件欠缺,天主教會便開始陸續在各地創立教會醫療院所,從海外引進醫療專業工作者與醫療設備,填補醫療缺口。

1955年創建的若瑟醫院,至今仍是雲林在地醫療守護者。當年交通不便,經常延誤就醫,導致各種病症的死亡率均偏高。地方上雖有留日的醫生執業,但高昂的收費並非普通老百姓能負擔得起。為此,天主教嘉義教區主教牛會卿計畫在虎尾鎮蓋一座「不以營利為目的」的醫院,讓民眾能就近診療。

若瑟醫院:雲林醫療先驅

1953年,畢耀遠神父接下籌建台灣若瑟醫院的任務,從家鄉荷蘭搭機到羅馬,再從義大利米蘭附近熱內亞港登上貨船,1954年抵達台灣,積極協助牛主教籌建醫院。

1955年,教區因緣際會買下虎尾鎮上一棟半完工的醫院;當年12月若瑟醫院落成,牛主教邀請有醫療背景又會說中文的比利時籍松喬神父來台擔任第一任院長。一開始只有2位醫生、2位護士跟10名修女助理,松喬神父主持院務也負責放射檢驗,畢耀遠神父則協理醫院行政並在藥局工作。「整個醫院就像大家庭,阿伯(松神父)就是大家長,大家都喊他們阿伯、叔叔(畢神父)。」婦產科兼家醫科主治醫師蔡孟宏說,「他只有一個方法:包容,愛心,讓你感動,你就為他打拚,沒有一定叫你做什麼,你就覺得自己沒做很不好意思。」

時至今日,若瑟醫院共有員工七百多人,病床擴增至361床,是提供綜合醫療的區域教學醫院,擁有雲林第一個兒科加護病房(1985年設置)、第一個小兒科24小時急診業務(1998年開辦)、第一個安寧病房(2006年成立),同時也是雲林地區第一所主動進入社區家庭,從事公共衛生與病人服務的醫院(1975年)。

畢耀遠:嘉義教區的美麗禮物

1953年,荷蘭籍的畢耀遠神父受傳教故事影響,自願奉派至台灣工作。隔年抵達台灣後,大多數時間投入若瑟醫院的籌備與建設。「我們在醫院是全人關懷,關懷他的身體、他的靈魂還有他的精神,就是全人醫療。」畢耀遠說。醫院工作再忙,他還是會風雨無阻,每天到病房為病人降福、祈禱。他也殷切關懷員工與眷屬,六十多年來,陪伴過無數家庭度過生命關鍵時刻。

前幾年,當若瑟醫院前會計主任吳俊男健康檢查時發現罹癌,突如其來的噩耗讓全家不知所措。畢耀遠的溫馨陪伴給了吳家人莫大支持,也讓吳俊男在臨終之際能「在天主懷抱裡安詳」。吳太太、也是企畫室高級專員的張美蓉說:「先生住院時,當時也因病住在另一間病房的畢神父,天天堅持坐輪椅來探望,鼓勵我們積極面對。」當吳俊男不敵病魔離開人世,畢耀遠還抱病為這位老朋友主持殯葬彌撒。「喜樂時,神父與我們一起分享;我們痛苦時,他也一直都在;悲傷時,他陪我們一起度過。」往事歷歷,張美蓉努力不讓眼淚掉下。

畢耀遠多才多藝,精通多國語言,長年擔任主教外文秘書。而且,「他比我所看過的任何神父都還要自律」,醫院首席顧問宋維村說,畢耀遠規定自己:絕不在獨處時喝酒,喜歡吃巧克力,但絕不一人獨享。以小見大,或許是這樣的人格特質,讓牛主教選派畢耀遠,在1956年到1969年間多次遠赴美國各地教會募款。

募款所得大多用來擴建醫院,也為嘉義教區帶來最美麗的禮物:1962年落成的聖奧德堂。畢神父希望教堂的造型必須能讓人看一眼後會想駐足欣賞,不會繼續往前走,因此請來宗教藝術家鮑步雲(現改名為「鮑博」)幫忙,以「祈禱中的雙手」意象設計出梯形建築,造型前衛。採訪當天,94歲的畢耀遠仍熱情相伴,清晰敘述著教堂裡的點點滴滴:內部「十四處苦路」(描述耶穌被釘上十字架的最後一段塵世生活)的馬賽克拼貼,二樓白牆上鮑步雲的藝術創作……如同聖奧德堂,畢耀遠神父也是上天賜給嘉義教區最美麗的禮物。

方秀仁:欣賞生命中的美好

來自比利時的方秀仁,還是荳蔻少女時就決定獨身奉獻社會,1967年28歲來到台灣若瑟醫院,擔任助產護理師。「(當時)比利時有一位好朋友,他說台灣那邊有位主教,一直需求一個醫生,不然一個護士也好。所以我是一個『也好』的那位。」方秀仁邊笑邊說著自己如何來到若瑟的緣由。

方秀仁到若瑟時正好躬逢1970年到1980年代台灣生育率高峰期,親手接生許多寶寶。當時,若瑟最高紀錄是一個月接生400個新生兒,連堆在儲藏室的嬰兒床都推出來也不夠,她靈機一動把抽屜搬出來當臨時床。當年昂貴的早產兒保溫箱數量少,經她巧手創意改造,變魔術一樣把1個保溫箱變成能同時守護4個孩子的空間。

退而不休的方秀仁,目前轉到院牧部擔任關懷師,在病房慰問病患。她很能理解人的痛苦與困惑,「只要是人,一起生活就會有困難,」方秀仁說,「但是,也有很多很美的時候。」

她喜歡用「很美」來形容一件事:「某位女兒癌末離開人世,獨立撫養她長大的媽媽,一邊協助為女兒清潔、入殮,一邊生氣盯著當年拋家棄子、聽聞女兒死訊而匆匆趕來的爸爸,不讓他碰女兒一根手指。」爸爸也只能躲在角落,不敢造次。直到最後要幫女兒戴上帽子,媽媽終於心軟,願意讓爸爸上前,幫女兒最後一次整理儀容。「這不是很美嗎?」

看遍無數出生與死亡,生命本身的偉大,讓爭執與痛苦顯得渺小。或許如此,方秀仁十分懂得欣賞美好事物。她帶著訪客走出若瑟醫院大門,逛虎尾中正路菜市場。「多好啊!以前怎麼會想到,七十幾歲了,還可以在上班時間出來逛菜市場。」方秀仁開心地說。

葉秀珍:得到的比付出更多

早年台灣經濟不發達,培養一位醫生談何容易。若瑟醫院創立初期就鬧醫師荒,松神父請教會代為尋找願意來台灣奉獻的外籍醫師,第12屆醫療奉獻獎得主葉秀珍醫師,就是這樣與若瑟結下緣份。

「松神父大約每五年會回比利時一趟,他順道來家裡看我。當時我還在比利時讀醫學院,必須接受小兒科訓練;等我畢業、受訓完來到台灣,還要先去學會中文才能去若瑟醫院工作。松神父就這樣等了我五年。」1980年,葉秀珍抵達台灣,不久若瑟成立小兒科並增設兒科加護病房,讓她發揮專業救了許多早產兒與病童。

「她是全台灣唯一會在看診時要求病患脫掉衣服,以便能詳細檢查全身的小兒科醫師。」宋維村觀察,這歸功於葉秀珍在比利時所受的嚴謹小兒科醫師訓練。孩子與成人不同,無法清楚自我表達,因此,經由詳實的身體檢查,可以更全面而完整地評估病況。

院長特助蔡玉純說,葉秀珍這位小兒科元老級醫師,最重視醫療品質,死亡率偏高的早產兒,在若瑟的小兒科卻是照顧得特別好。因為用心,護理人員餵早產兒喝奶,不像一般醫院一次就增加10cc餵食量,而是從1cc、2cc開始適量增加到5cc、6cc,俾能降低吃太多導致壞死性腸炎併發症的機率,期使早產兒慢慢長大到足夠的體重,順利出院回家。

對葉秀珍來說,自己的奉獻並不特別。「你們說,我們從國外來好偉大,我覺得我們這裡的護士小姐更偉大。來這邊照顧別人的孩子,還要照顧自己的孩子,還有家人。病房一名護理人員每次都自願輪值大夜班,她有兩個孩子,排大夜班是為了隔天可以回家照顧自己生病的婆婆。這些人不偉大嗎?」

葉秀珍更說,「我常常覺得,醫生跟護士,比起所付出的,獲得的其實更多。」她印象最深刻的是一個優秀、聰明而樂觀的孩子,罹患了肌肉萎縮症——這是一種基因缺損疾病,全身肌肉會慢慢萎縮無力,最嚴重會波及呼吸肌或心臟肌肉,導致無法自行呼吸。孩子病情危急住進加護病房時,葉秀珍在去探望的路上一直想,該怎樣安慰她?到了醫院,「她一看到我就笑了。孩子媽媽說,昨天老師跟同學來了她也是這樣笑笑的。幾天後,這孩子就真的走了。」葉秀珍說,「這樣的孩子懂得怎麼生活,也懂得往好的一面看,在困難中還會給別人她的微笑。這孩子給我的,比我給她的還多。」

健康與希望的循環之路

「靠著信仰,他們來到完全不認識的台灣,全心投入,讓人佩服。」宋維村說,他們並沒有讀過《禮運‧大同篇》,卻用信仰與熱情持續投入,實踐老有所終、幼有所長的中國傳統精神,讓需要的人都能受到妥善照顧。

只是,當代醫療目前逐漸從「仁術」向「算術」傾斜,追求績效管理。如何在引進新管理模式的同時,又保有教會醫院的「人味與精神」?如今雲林邁入醫療戰國時代,當年適時補足政府、社會在地醫療照護的階段性任務,已不復存在。回歸若瑟「繼續做社會上有需要但還沒有人做的事」此一創立初衷,未來的路該走向何方?

「當年他們遠從歐洲來此奉獻服務,現在他們年紀大了,難道我們台灣人自己不能把這個擔子扛下來,繼續若瑟醫院服務雲林人的使命?」宋維村說,社會需要持續關懷弱勢,「也可能是,把我們的醫療專業跟奉獻精神,帶到非洲或南美洲其他更有需要的地方,讓更多人得到照顧。」一如畢耀遠、方秀仁與葉秀珍,跨越種族、國家與信仰在異鄉奉獻一生,讓更多人自立。或許這些人也將更有能力去照顧別人,帶來更多的健康與希望,使愛除了在醫院的生與死之間傳遞,也能跨越更多國界、膚色,在人與人之間生生不息。

My Brother’s Keeper: St. Joseph’s Hospital

Sanya Huang /photos courtesy of Lin Min-hsuan /tr. by Robert Green

Throughout the six decades since its founding in 1955, St. Joseph’s Hospital in Yun­lin County has been watching over the health of the local population. Several times it has been voted the best medical center in Yun­lin, and has received 11 Medical Dedication Awards. It acts as a good neighbor (in the Christian sense) to the people of Yun­lin. Nicknamed the “three treasures of St. Joseph’s,” senior staff members Father Antoine Pierrot, chaplain Godelieve Franssens and pediatrician Dr. Marguerite Billiet traveled from abroad to dedicate their lives to St. Joseph’s. Today, now that Yun­lin has numerous medical centers, St. Joseph’s has fulfilled the mission that it undertook in a different era, and the three are growing old. How then can they pass the torch of holistic care to a new generation and continue to deliver health and hope? This is the challenge the hospital faces as it seeks to transform and modernize itself.


 

In the 1950s, after the chaos of the war years, Taiwan faced a dire shortage of medical facilities. Fortunately the Catholic Church founded clinics around the island and brought in trained medical personnel and specialist equipment from overseas to fill the gap.

In 1955, the Catholic Church established St. Joseph’s Hospital in Hu­wei, Yun­lin County, and today it is still a major provider of medical services locally. In the 1950s, outside the main urban centers there were some doctors practicing who had trained in Japan, but they were prohibitively costly for the average person. For this reason, Bishop Thomas Niu of the ­Chiayi Diocese decided to establish a nonprofit hospital in Hu­wei that would provide medical care locally to ordinary people. 

St. Joseph’s: Pioneers of healthcare in Yunlin

In 1953 Father Antoine Pierrot accepted the task of setting up St. Joseph’s. He boarded a flight from the Netherlands, his native land, to Rome. He then traveled to the port of Genoa, near Milan, to catch a freighter, and arrived in Taiwan in 1954, eager to help Bishop Niu establish the hospital.

After the hospital building was completed in December 1955, Bishop Niu invited Fr. Georges Massin, a Belgian native, to come to Taiwan to serve as the hospital’s first director. In those early days, the hospital staff consisted of only two doctors and two nurses, who were assisted by ten nuns. “The whole hospital was like a big family,” says obstetrician and gynecologist Cai Meng­hong, who doubles as a family medicine practitioner. “Father Massin was always forgiving and compassionate. It was really moving, and made you want to work your hardest. No one had to tell you to do anything. You just felt ashamed if you didn’t take things upon yourself.”

Today St. Joseph’s is staffed by more than 700 people, and the number of hospital beds has increased to 361. It is a regional teaching hospital that offers comprehensive treatment. It established Yun­lin County’s first pediatric intensive care unit (1985), first 24-hour emergency pediatric service (1998), and first hospice (2006).

Antoine Pierrot: A beautiful gift for Chiayi Diocese

In 1954 Fr. Pierrot arrived in Taiwan to take up the mission that he had volunteered for. He dedicated most of his time to establishing and developing St. Joseph’s. “In this hospital we take care of the whole person, mind, body and soul. That’s what we call holistic care.”

But no matter how busy he was, he went to the hospital day in and day out, rain or shine, visiting patients in their rooms and saying prayers for them. He also devoted himself to the care of the staff and their families. Over six decades, he helped countless families through critical moments in their lives.

Some years ago, when the former head of accounting at St. Joseph’s, Wu Jun­nan, was diagnosed with cancer, Pierrot’s presence gave him tremendous comfort and allowed him to experience serenity and God’s embrace as he neared death. “When he was hospitalized, Father Pierrot was also ill and staying in the hospital,” says Wu’s wife, ­Chang Mei Jung, who works in the hospital’s planning office. “He insisted on visiting in his wheelchair every day and encouraged us to remain positive.”

After Wu Jun­nan succumbed to his illness, Pierrot led the funeral mass for his old friend, despite being ill. “He shared in our joys, and in difficult times he was always there to help us get through our sorrows,” ­Chang recalls, doing her best to hold back her tears.

Pierrot formerly spent a decade shouldering the responsibility of collecting donations at churches all around the United States. The majority of the funds were used to expand St. Joseph’s, but they also brought to the Chiayi Diocese a most beautiful gift—the Church of St. Augustine, completed in 1962. Pierrot enlisted the help of Francisco Borboa, a painter of religious themes, to design the avant-garde trapezoidal building, the form of which is based on the image of a pair of praying hands. Just like the church, Fr. Pierrot is also a beautiful gift given by God to the Chiayi Diocese.

Godelieve Franssens: Appreciating life’s beauty

In 1967, at the age of 28, Godelieve Franssens, a Belgian national, arrived in Taiwan to assume responsibilities as a midwife and nurse. During the baby boom of the 1970s and 1980s, she personally assisted in the birth of a great number of children. During that time, the greatest number of deliveries recorded at St. Joseph’s was 400 newborns in a single month. Bassinets that had been relegated to storerooms were pressed back into service but still more were needed. Franssens hit on the idea of taking out drawers and using them as bassinets, and as if by magic she also managed to fit four babies into each incubator.

Now that she has officially retired, she continues to work as a chaplain for the hospital’s pastoral care department, bringing comfort to patients. In describing her interactions with other people, she loves to use the words “really beautiful.” “There was one time that a girl had just died of cancer and her mother, who had raised her on her own, was busy giving instructions to the people who were washing and dressing her daughter, while at the same time glaring angrily at the girl’s father, who had abandoned them years before,” Franssens recalls. “The father rushed to the hospital on learning that his daughter had died, but the mother wouldn’t let him near her.”

The father could only sit silently in a corner and wait. Finally when they were about to put a hat on the girl’s head, the mother’s heart softened, and she let the father come forward to do this one last thing for their daughter. “Isn’t that a beautiful thing?” Franssens says.

After witnessing so many births and deaths, the majesty of life made struggle and suffering pale in significance. Perhaps as a result, Franssens knows how to appreciate the beauty of life. She walked with us out through the front entrance of St. Joseph’s to stroll through the market on Hu­wei’s Zhong­zheng Street. “It’s fantastic. I would never have thought that in my seventies I would still be able to pop out during work and visit the market,” she says with joy.

Marguerite Billiet: Giving is its own reward

In the hospital’s early days, the medical staff was stretched thin, so Fr. Georges Massin appealed to the church to recruit more doctors from abroad. Thus it was that Marguerite Billiet, who would receive a Medical Dedication Award in 2002, became affiliated with St. Joseph’s. “Father Massin returned to Belgium about once every five years,” Billiet explains. “On one trip, he paid a visit to my home. At the time I was still in medical school, and I still needed to complete my training in pediatric medicine. After becoming certified in pediatrics and arriving in Taiwan, I still had to learn Chinese. Father Massin thus had to wait for me for five years.”

In 1980, Billiet arrived in Taiwan and put her skills to work, treating countless premature newborns and sick children. 

“She is the only pediatrician in Taiwan who requires patients to strip down for a detailed full-body examination,” observes ­Soong Wei-tsuen, a former director of St. Joseph’s. This is the result of Dr. Billiet’s rigorous pediatric training in Belgium. Through a close examination of the entire body, she is better able to arrive at a comprehensive assessment of a patient’s condition. St. Joseph’s excels at caring for premature infants, who are at high risk for infant mortality. In these cases, the nursing staff feed milk to the children in tiny doses, starting from one to two cubic centimeters and gradually increasing to 5‡6 cc, to reduce the risk of necrotizing enterocolitis caused by overeating. In this way, premature infants slowly build their body weight to normal levels and can be released from the hospital.

Billiet, however, shies away from accepting praise for her own contributions. “You say that it’s extraordinary for us to travel from abroad to practice here,” she says. “I think what the nurses do is even more praiseworthy. They come to the hospital and care for the children of others while looking after their own children and family members too. There is one nurse who has two kids but always requests the night shift so that she can take care of her sick mother-in-law in the daytime. How could anyone say that these people are not really impressive?”

“I often feel that what we doctors and nurses give pales in comparison to what we get back,” Dr. Billiet says. One patient that left a particularly deep impression was an impressive, intelligent and optimistic child who suffered from muscular dystrophy. The disease is incurable and causes the muscles in the entire body to slowly lose strength until the patient finally is unable to breathe. When the child’s condition became critical, she was placed in intensive care. “Every time she saw me she smiled. A few days later, she passed away,” Billiet says. “She really understood how to live and to look on the bright side. In the midst of her suffering she still greeted others with smiles. What she gave me was infinitely more than I could give her.”    

A cycle of health and hope

But in an era when medicine is pursuing performance-driven management, how can St. Joseph’s adopt new management paradigms yet still preserve the compassion and ethos of a Catholic hospital? Moreover, now that Yunlin has a good number of large-scale hospitals, St. Joseph’s original mission of making up the shortfall in what government and society could provide in terms of local medical care is no longer relevant.

“In the past, they traveled all the way from Europe to donate their services here,” ­Soong Wei-tsuen says. “But now they are old. Surely the people of Taiwan can shoulder this burden themselves and carry on St. Joseph’s mission of caring for the people of Yunlin.”

Just as the selfless contributions of Antoine Pierrot, Godelieve Franssens and Marguerite Billiet—transcending ethnicity, nationality and faith—enabled even more people to stand on their own two feet, perhaps in the future these people will return the favor by caring for others, and by doing so bring even more health and hope into the world.