性的搾取から少女たちを守る
負けず嫌いのデズレ神父は、子供の頃から勉強もスキーも一位だった。だが、こうした性格は良くないと神父は言う。台湾に来て数々の挫折や困難にぶつかったことは謙虚さを学ぶ機会となった。「困難のない日はありませんが、人生とはそういうものです。私はもともと生を分かち合うために台湾に来て、ここで多くを学ぶことができたのです」と語る。
フランス語を母語とする神父は、一から中国語を学んだが、中国語の発音のローマ字表記であるイェール式とウェード式を学ぶために、まず英語を3週間勉強しなければならず、最後に注音符号を学んだ。今では日々中国語の新聞を読み、中国語で説教やミサを行なう。ただ、長年の接触からか神父の話す中国語はタロコ訛りがあり、またフランス語文法の思考が感じられる。
デズレ神父は1979年から青少年のサマーキャンプを開始した。朝は讃美歌とミサ、午後は山歩きというスケジュールで40年続けている。
1982年、山地の集落では、先住民を騙して借金をさせ、借金のかたに幼い娘を連れ去るという事件が頻発していた。連れ去られた少女たちは性的搾取に遭っていたのである。神父は、一度は金を払って少女を連れ戻したが、再び連れ去られてしまった。そこで教会に来る少女たちに「もし誰かに連れ去られそうになったら、すぐに私のところに来なさい」と言い聞かせた。
ちょうどサマーキャンプの時期だったので、神父は青少年を連れて天祥へ行っていた。所用があって秀林の教会に戻ってみると、教会の外に人影が見えた。木の陰に隠れていた少女は、誰かに連れて行かれそうだと話した。神父は彼女を天祥のキャンプ場へ隠したが、それでも後に見つかって連れ去られてしまった。
なす術がない悲しみと憤りの中、神父は台湾が海外からの評価を非常に気にすることに思い至り、外国からの圧力で現状を変えさせようと考えた。そこで1984年9月、友人を通してスイスの新聞に投稿すると、日曜日にローザンヌの新聞が「台湾の先住民族が性的奴隷に」という記事を掲載したのである。ちょうどその時スイスに滞在中だった台湾の聯合報の発行人である王效蘭がこの記事を目にし、火曜日に聯合報がこの消息を掲載すると、台湾社会は大きな衝撃を受けた。大勢の記者が花蓮の秀林郷に取材に行き、記事の影響は炎のように燃え広がっていった。そして台湾のキリスト教会や女性団体、人権団体などが、台北華西街で性的搾取に遭っている少女たちを救い出す行動に出始めたのである。
その頃、台湾の外事警察は資料を提出しなければ強制送還すると神父を威嚇した。「追放されるのは怖かったですが、私は正義と光明のために闘っていたのです。正義と光明という価値観は生活に根付かなければいけません」と語る。
1966年に竣工した新城天主堂は、地元の人々の心のよりどころとなっている。(デレズ神父提供)