生活に根差した在来産業
南投県竹山に位置する徳豊木業は、祖父から孫までの三世代、木材に携わってきた。祖父は木炭や下駄の販売から身を起し、林班(ある程度ひとまとまりとなった森林)を借り受けて伐採と造林を行うようになった。父の代では乾燥、防虫、防腐、耐火などの加工技術を開発し、斜陽産業から運命を切り開こうとした。孫の代になって、木造構造の建築工法を開発し、木材産業の再興と環境保全に力を注ぐようになった。
「木と私たちの生活は、数千年来切り離せないものでした」と、南投県永隆林業生産合作社の主席理事で、徳豊木業二代目の李成宗は、分厚い原木のテーブルに悠然と自分で栽培した茶を立てながら、父の創業の苦労を思い起す。
1941年、徳豊木業の創業者李有徳は、木材は一般の人の衣食住と切り離せないと考え、日用品の木炭や下駄の商いを始めた。「父は旧台湾ドルが新台湾ドルに切り替わるインフレを経験しました」と、物価高騰の当時、原価を圧縮するため、李有徳は山から直接原料を買い付けた。さらに川下から川上業者に転換し、林班を借り受けて運営に乗り出し、1945年に徳豊木業股٪ڤ有限公司を設立した。
父の時代にはよい木材が簡単に手に入ったという通り、台湾は原生の森林資源が豊かという、他にない強味があり、その時代の林業の発展は人も羨むものだった。しかし、発展の影に大きなリスクを抱えていた。
李宗成が七歳の年、父は旧正月前に木材すべて売りさばこうと、多くの人手を雇って、木材を山から下して川べりの集積場に集め、船を待っていた。それが何日も大雨が続き、集めた木材は全て流されてしまったのである。元手は帰らず、さらに買付代金、輸送などの巨額の費用が残った。信用を重んじる李有徳は、家や土地を売って債務を返済し、妻子を連れて故郷に戻り、田を耕すことにした。
李成宗はやるせない笑顔で「悪いことは続くもので、その年は前例のない凶作でした」と、農業で生計をと考えた李有徳にまたも不運が続いた。しかし、温厚で信用のある李有徳に対し、同業者がもう一度機会を与えようと、木材伐採の費用を立替えてくれた。「父はいつも信用こそ無形の資本と言っていました」と、李成宗は父の家訓を子孫に伝えている。
1999年の台湾大地震の後、李文雄と弟の李岳峰が再建した家屋。古い木造構造の3階建てで、レトロな趣きを感じさせる。