町づくりの先駆け
1980年代の台湾の経済成長期、暮らしが潤うようになると、人々は「大家楽」という違法宝くじに熱中した。町の開業医の陳錦煌さんは、頭痛や不眠に悩む患者が増えたり、当選者がお礼参りと称してヌードダンサーを載せた山車を繰り出すなど、ギャンブルが社会に及ぼす悪影響を憂慮していた。そこで、雲門舞集(クラウドゲイト・ダンスカンパニー)を率いる林懐民さんに、新港での公演を依頼した。林さんは新港出身だ。
「子供たちがワールドクラスのパフォーマンス芸術を目にし、そういう文化が生活の一部になればと願いました」と、新港文教基金会の創設者でもある陳錦煌さんは語る。当時ちょうど林懐民さんも芸術を大衆に根付かせる方法を模索しており、2人は意気投合した。しかも林懐民さんは出演料を基金会に寄付し、これは基金会設立後に初めて受けた寄付となった。
新港文教基金会の設立は1987年。台湾初の町村レベルの基金会であり、ボトムアップ型町づくりの先駆けとなった。最も重要な目的は芸術や文学を地域に根付かせることで、移動図書館車を僻地や学校へと走らせた。現在でも新港の各村のお年寄りにサービスを提供し、同時に彼らに人生経験を語り、伝えてもらう場を設けている。
新港はかつて伝統音楽「北管」が盛んだった。だが時代とともに人々の娯楽も変わり、北管の伝統も途絶えつつあった。そのため基金会は、100年の歴史を持つ地元の北管音楽団「舞鳳軒」とともに後継者養成プロジェクトを開始し、団員の募集等を進めている。また古民小学校では「宋江陣(伝統の武術パフォーマンス)」を教えている。
芸術・文学からさらに手を広げ、環境保護や地域緑化にも取り組む基金会は、1988年の大甲鎮瀾宮の巡礼団が町に来た際にボランティアを集め、行列が通過した後の、おびただしい爆竹の燃えカスを掃除した。ほかにも、陳錦煌さんの母親が野菜を育てていた「緑園」を苗木園にし、植樹のための木を育てて新港の緑化を進めた。
台湾糖業鉄道の最後の営業路線である「台糖嘉北港線」が廃止されたのが1982年。沿線の新港駅はその後、雑草の生えるままになっていた。そこを基金会で人を動員して清掃し、鉄道公園を作った。名に「鉄道」を冠した公園としては全国初だった。公園のそばにあった台湾糖業の社員寮も改築してカフェ「新港客庁」に変身させた。
農村の高齢化に合わせたサービスも進めている。前述の緑園は現在「素園」と名を変え、高齢者や重度障害者のケアをサポートする場所となっている。
基金会への取材では、陳錦煌さんは自転車で素園に現れ、陳政鴻董事長や徐家瑋事務局長も駆けつけた。町づくりの営みが末永く続いていくことを象徴しているような光景だった。
奉天宮は、人々の信仰の中心地であり、地理的にも新港の中心部にある。