血と涙で運を切り開いた蜀濤
生活が上向くと、芸術家としての魂が頭をもたげてきた。そこでブリュッセル王立美術アカデミー油絵科に入学し、さらにブリュッセル自由大学とゲント大学で現代美術理論を学んだ。
勤勉が易忠銭の一貫した態度である。1982年にブリュッセルで開かれた展覧会で、彼女は銅賞を受けたが、「当時描いていたのは西洋画で、私の絵を見た人は西洋人が描いたと思っていたようです」と話す。己の文化を離れ魂を失ったような絵は、芸術家には苦痛であった。
静まった夜更け、易忠銭は窓の外の闇を見つめていた。「黒、それは人の根っこ」と悟り、胸に蹲る憂悶を、深い墨でぶつけて、人に忌まれる黒という色彩の力を存分に発揮した。さらに赤い印と金箔片でバランスを取った。
「表現したいのは思念であり、円と四角は生と生活の思索です」と言うが、筆を執ると眠っていた魂が呼び覚まされ沸き起こる。長年閉じ込めていた悲喜こもごもが溢れたのである。
「百枚余りを描いたのですが、最初は誰にも注目されませんでした」と、問う人もない十年は芸術家の孤独であった。ところが1990年になって、思いがけない転機が訪れる。易忠銭が創作した寓意と哲理を自在に表現する東洋的様式が、ヨーロッパの批評家を驚かせ、画壇に一躍その名が知られるようになったのである。
詩経に「情は中に動きて、言に形あらわる」と言うが、易忠銭の創作が「追求」「生命の路」「跳躍」「攀縁」と続くのは、数奇な人生の心の写実であった。伝統的な水墨画技法を基礎に、異なる材質を自在に組合わせてきた。西洋絵画の透視画法を用いた構成は、曲線直線を織り交ぜ、相互に絡み合い、その起伏の間に生活の雑多さを表現する。旗幟鮮明な蜀濤のスタイルが、ここに確立されていった。
易忠銭は、その強靭な生命力を創作に惜しみなく投じていった。こうして半世紀、個展だけで27回、その他の展覧会は数知れない。さらに5回も参加した国際アートフェアでは、ベルギーのファビオラ元王妃や、当時のEU議会の議長も自ら作品の鑑賞に訪れたのであった。
易忠銭の思いやりの心情は、絵画にも生活にも表現されている。彼女が主宰する余易画廊と藍蓮閣サロンは、若い芸術家に展示の機会を提供してきた。さらには故郷への思いを忘れず、ヨーロッパの現代芸術家13人を、南台湾の展示に招いたこともある。
すべての生命体はこの世で完全に孤独な道を歩み、社会の倫理規範の中、それぞれの運命を切り開く。