一生を文学の学生として
60部余りの小説、30部近い伝奇、エッセイ、童話を書いてきたプロの作家として、天才の呼称には同意しないと言う。
「文学者には二種類ある」と司馬中原は言う。一つは天才タイプでプロ作家ではなく、フランソワーズ・サガンのようにただ一冊の「悲しみよこんにちわ」で、一生で最良の経験を書き終え、後には何も残っていない。もう一つのタイプがプロ作家で、トルストイのように『アンナ・カレーニナ』や『戦争と平和』を書くために、文化や歴史、社会構造に豊富な知識を必要とし、土地に生きる人々の生活を理解していなければならない。
司馬中原は確かな写実技法で少年時代の見聞を描きだし、超人的な記憶力を頼りに、豊富な読書量と生活経験で小説の世界を広げてきた。
長い小説人生を振り返り、「小説は小さな説、大説ではありません。最初は小説を大説にしようと、不公平を糾すため飛び込んでいきましたが、それでは小説の純粋性が失われます」と語る。
そこで編み出した表現方法が物語で、人物を生み出し、その人物に語らせることである。小説家のすべきことは、四方八方に学ぶことで、正面から、裏から、上から下から学び、おろかな人物にはおろかな言葉を、聡明な人物には聡明な言葉を語らせる。自分にとっては、すべての人が教師なのだと言う。
芝居に喩えると、小説家は創作した小説の中で役を演じる。小説の中で六本指の貴隆、侠客の歪胡癲児、孤女銀花などの登場人物が動き出し、自分の物語を発展させ、小説家が考えたストーリーをひっくり返す。だからこそ、自分も小説の人物から学ぶのだと、司馬中原は言う。
すばらしい物語をこれからも
司馬中原は評論家の説にも賛同する。小説は物語とは異なり、構成と形式を重視しなければならない。「それでも本当の形式は内容から決まるものです」と言う通り、物語の方法が時代遅れとは思っていない。その物語が情理兼ね備えた生きたものとなるかが問題なのである。
現代小説が物語を語らなくなったために読者を失っているとき、司馬中原は悠久の昔からの小説を再び読者の前に展開して見せた。「生き残れるものなら、この民族を知り、次の世代に歴史と文化を伝えるために一生を使う」と、若い頃に故郷の土をつかんで誓った言葉を、司馬中原は実現したのである。