先史時代の暮らし
和平島の考古学遺跡から出土した石斧や石槌は今から3000年前の新石器時代晩期の圓山文化のものだ。また製鉄炉の壁面の残骸は今から1800~400年前の鉄器時代の十三行文化の存在を証明する。金色のガラス玉とガラスの耳飾りは、鉄器時代の先住民族がすでに花蓮などと取引を行なっていたことを示す。さらに、カラバカの十字架の残片はオランダ時代のものである。諸聖教堂から出土した20体の遺骨は、修道院の宣教師と推定され、スペイン人による台湾統治を示す唯一の遺跡であると同時に、大航海時代における台湾のポジションを示す重要な証拠となる。
諸聖教堂遺跡の近くで餃子店を経営する藍秀鳳さんは「以前、十三行博物館を見学した時はよく分かりませんでしたが、考古学ガイドの養成コースを受講して、私たちの小さな和平島のことが少しずつ明らかになりました。考古学や歴史はとてもおもしろいです」と言う。
藍秀鳳さんは1972年に基隆の八斗子から和平島に移住してきた時、この島の市場では言葉の訛が違うことに気付いたという。山東省や大陳島などから来た退役兵や客家人もいれば、沖縄出身の日本人に嫁いだアミの女性もいたし、料理人で理髪師で、裁縫もできる福州人もいたそうだ。
このように、ゆったりとした時間が流れる和平島には、さまざまな土地から来た人々が暮らしている。藍さんによると、ここには3000年以上前から人が暮らしていて、出土した遺骨はすべて40歳以下ということから、当時の寿命が短かったことがわかると言う。また聖諸教堂の塀の厚さは2メートルもあり、冬の季節風を遮る目的もあったが、重要なのは外部の攻撃から神父の安全を確保することだったそうだ。
「これほど身近に遺跡があるので、住民はみなガイドになって地元の文化を紹介することができます」と文化局長の陳静萍は言う。遺跡と正浜漁港、和平島公園をつなげば、さらに深く島の文化や自然に触れられる観光ルートとなる。
「歴史再造現場プロジェクト」に組み込まれた正浜の旧漁協ビルは今は修復中で、四角い回廊型の建物の外壁には13本の溝が彫られたタイルが用いられている。日本統治時代には重要な漁業基地とされて、郵便局や競り市の他に大浴場も入っていた。後に監獄として利用された後は最近まで放置されていたが、2021年後半には修復を終え、素朴だが堂々としたヒノキの窓枠も見学できるようになる。
基隆の砲台の密度は極めて高く、ここが北台湾の要衝だったことがわかる。